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 由貴が匙をとり、ご馳走にとりかかろうとしたとき、一人の女官が困った顔で入室の礼もそこそこに、惣礼の
傍らに進み出て何事か耳打ちした。それを聞いた惣玲はわずかに眉をひそめ、無意識に顎髭をしごいた。
「舞を踊る巫女が突然腹痛を?それは困ったのぅ、他に準備の整っておる舞手はおらぬのか?」
女官は困惑顔のままかすかに首を振る。惣玲はふと思惑げな顔をすると、談笑している臣下のほうに声をか
けた。
「紫覡斗殿、少しよいか」
 由貴は驚いて惣玲が声を掛けたほうに目を向けた。彼女の座敷から数席離れた場所に、彼は仏頂面で座
っていた。さっきまで襟足の辺りで結わえただけだった長髪をこめかみの部分だけ残してきっちりと礼冠にお
さめ、小袖から立派な礼服に着替えた紫炎はまるで別人で、やけに若い臣官がいるなぁと思っていた由貴は
彼だと気付かなかったことに驚いた。
 周りが脂のたぎる中年男ばかりだからかもしれないが、今の彼の姿は一際気品高く、一時女性と見間違え
たのがうそのように艶やかな男性然としていた。あからさまに不機嫌な顔をしていなければ申し分ないのだ
が。
「なんでしょうか、主上」
何か嫌な予感でもしたのか、紫炎はさらに眉間にしわを寄せて尋ねた。惣玲はその反応を楽しむように目を
細めて、信じられないことを口にした。
「おぬし、舞に出る予定だった巫女の代理をしてくれぬか」
「えぇ!?」
思わず驚愕の声を上げた由貴は、慌てて口にてをやった。皆自分と同じように驚きの声を上げるかと思いき
や、叫んだのは由貴ただ一人だったのだ。天津さえ、人々は一様に嬉しそうな顔をして、ため息を吐いた紫炎
に視線を向けている。
「おぉ、紫覡斗殿の舞が久方ぶりに拝見できるのか」
「これは思わぬ幸運でしたな」
そう言って顔を見合わせ微笑む臣官たち。
紫炎は最後の抵抗と、切れ長の目を細めて惣玲を睨んだが、彼に一つ頷かれると観念したように目を閉じて
立ち上がった。
「…承りました」
そっけなく返事をすると、紫炎は音もなく立ち上がり、礼冠を脱いで座敷に置いた。高い位置で結わえられた
深い藤色の長髪が、まるで滝のようにすずやかな音をたてて背を流れ落ちる。それだけで巫女達の間からは
うっとりと言葉にならないため息が漏れた。
(皆、きっと見かけに騙されやすいのね)
内心で鼻をならし、由貴はほおを朱に染めて紫炎を見つめる巫女達を一瞥した。
(どんなに綺麗だって、やな奴ってことに変わりはないんだから)
しかし、紫炎が女官の捧げもってきた佩刀を手に取り、舞台の中央に進み出るのを見ると、由貴の目は知ら
ず知らずのうちに彼にひきつけられていた。
会場のすべての視線が紫炎に注がれ、彼の動きを見逃すまいと誰も彼もが息を殺している。そんな緊張感の
なかでも、紫炎の表情は変わらなかった。
「詩聖、藍幻影の"駆蕉歌"、第三節"猛進の路"を拝舞させていただきます」
紫炎が舞の題目をなめらな声で告げると、楽氏達の手が大きく振り上げられ、床をも震わす激しい曲が流れ
だした。
紫炎はその白い面を惣玲の前で伏せ、佩刀を鞘から抜き放つと――突如並々ならぬ脚力で地を蹴り、宙高く
舞い上がった。
十分な高さがある天蓋すれすれまで跳躍したその姿は、鮮やかな紫の羽を持つ幻想の鳥のような美しさで。
由貴は彼の字の由来を知った気がした。
会場は一気に湧いた。皆の感嘆のため息と思わずあがった興奮の声とを受けながら、紫炎は重力を感じさせ
ない身軽さで床に降り立った。そして楽の音に合わせて流れるような優美な動きで、剣を自在に操りだした。
彼の流麗な動きにみな呼吸も忘れたように魅入っている。
「…すごい」
由貴もしぶしぶ彼の技量を認めた。彼女自身幼少の頃からダンス教室に通っていたこともあって、彼の動き
が完璧に熟練された動きであることは伺えた。あの跳躍力も半端じゃない。
曲調はだんだんと速さを増し、紫炎の動きもそれに合わせて目まぐるしい程に激しくなっていった。剣の軌跡
はもはや閃光となり、打ち広がる髪は炎のように彼の体を取り巻いていく。
ふと、由貴は眉をひそめて耳をそばだてた。鳴り響く楽の音と人々が交わす紫炎への賞賛の言葉に混じっ
て、不穏な感情が含まれた囁きを聞いた気がしたのだ。
果たして、由貴が密かに視線を走らせると、彼女の近くに座している臣官二人が、明らかに猜疑の眼差しで
紫炎を見ながら何事か囁きあっていた。
「…成り上がりの優男風情が、何故あぁも主上に目を掛けられているのか」
「全く、理解できませんな。女子のように萎えた容姿で剣舞など、驕りがすぎる」
そんな誹謗中傷を飛ばしながら、しっかりと目は紫炎のことを追っている彼らに、由貴は侮蔑の視線を向け
た。確かに、地位、若さ、容姿にも恵まれた紫炎に目の前でこんなにも優雅な舞を見せ付けられては妬みた
くもなるだろう。しかしついで彼らの口に上った内容に、由貴は顔色を失った。
「夜毎主上の添い寝の傍ら、甘い声で己の出世をねだっているのではないか?」
卑猥な笑みを浮かべ、男はそう囁いたのだ。それを聞いたもう一人の男もおかしさをこらえるように喉の奥でく
っ、と笑い、二人はいかにも楽しそうに肩を震わせた。
由貴は無意識のうちに唇を噛み締めていた。
(なんて低俗な奴らなの!)
きっ、と惣玲に目を向けるが、離れた席の二人の内緒話など聞こえるはずもなく、彼は紫炎の舞に目を細め
て魅入っていた。誰かがあの男たちの心ない言葉を聞いて眉をひそめてはいないかと、由貴は近くの臣官た
ちの顔を盗み見たが彼らは一様に知らん顔で舞に目を向けている。自分にも聞こえたのだから彼らの隣の者
くらいは聞こえているはずなのに、と疑問に思い、ついで由貴ははっとした。
彼らは紫炎への誹謗を受け入れているのだ。表面上は彼と対等に接していても、内心自分の息子、あるいは
それよりも下回る歳の若造相手に馬鹿らしいと思っていてもおかしくない。だからああも大胆に彼を侮辱する
言葉を吐けるのだろう。みな、聞こえていても何も言わない。
由貴は剣を自在に操り宙を華麗に舞う紫炎を複雑な思いで見やった。気のせいか、彼の顔もかすかに強ばっ
ているように見える。
(どうして紫炎は、そんなに頑張ってまで出世したかったんだろう)
先程の麗鈴の話を思い出し、由貴は内心首を傾げた。
(あんまり地位に執着するタイプには見えないけど)
やがて楽の音は緩やかになり、長い裳衣を床に打ち広げて跪き、最後に佩刀を鞘に戻して紫炎は動きを止
めた。そして楽の音も消えた途端、その場は割れんばかりの拍手に包まれた。
「変わらず優美な舞い、目を奪われたぞ、紫覡斗殿」
立ち上がって一礼した紫炎に、目元を和ませて惣玲が言う。紫炎は再び感情の消えた瞳を彼に向けると、そ
の口元にうっすらと笑みを浮かべた。
「お褒めに預かり慶幸至極にございます」
そう言う彼は、しかし言葉とは裏腹に何も感じていないように見えた。人形のような笑顔で人々の称賛の声に
応えながら、自分の座敷に戻り被りものを身につける。ふと、由貴は彼が息一つ乱していないことに気付いて
愕然とした。普通あれだけ激しい動きをしたらまず汗だくになることは間違いない。しかし彼の白い面は紅潮
するどころか一雫の汗も流れてはいなかった。まるで何事もなかったかのように鎮座する彼を、由貴は何か
得体の知れないものを見る目付きで見やった。
「やはりそなたは藍幻影を好むようであるな。猛進の路とはまた激しいものを。舞えるのはそなたくらいのもの
であろう」
拍手が鳴り止むと、惣玲が上機嫌の表情で紫炎に声をかけた。全員の視線が再び紫炎に集まるが、本人は
取り繕ったような笑みのまま、やんわりと首をふる。
「私などまだまだ未熟、遙(よう)師官の足元にも及びませぬ」
すると彼の言う遙師官を皆知っているのか、それはそうだと会場が笑いさざめいた。その笑いには含むところ
がなく、紫炎の言う遙師官が皆が認める名舞手であることが伺えた。
「彼の名が出たところで、皆に知らせておこう」
惣玲が思い出したようにそう宣い、人々はぴたりと笑い止むと何かを期待するように彼に注視した。惣玲はそ
の熱い視線を見返して焦らすように口をつぐみ、やおら嬉しそうな笑みを浮かべて言った。
「今日、別世のお客人が来訪したことを知り、紅遙克(こうようかつ)が宴に語り戸として来てくれるとのこと
だ。もうすぐ、この会場に顔を出すであろう」
とたんに人々が興奮を押さえられない様子でわっと一斉に声を上げた。
「なんと!久しぶりですの、あの方の語りを拝聴致すのも」
「今日はせんに良い日ですなぁ、紫覡斗殿に続き最高峰の舞と歌を堪能できるとは!」
沸き上がる会場のなか、何気なく紫炎を観察していた由貴は、彼の表情の劇的な変化に目を剥いた。
それまで人形のように生気が欠けた微笑を浮かべていた美麗な顔が、紅遙克の名を聞いた次の瞬間、自分
の耳を疑うように驚愕の表情を貼りつかせ、次いで花をも凌駕するほどのまばゆい笑顔を浮かべたのだ。喜
びを押し隠せずにこぼれたようなその笑みに思わず見惚れた由貴だったが、彼はすぐにその表情を拭い去る
と、恥じ入ったように辺りに視線を走らせた。目が合う前に由貴は慌てて顔を背け、惣玲に話し掛ける。
「あの、その紅遙克ってどんな人なんですか?」
「おそらく、この国一番の歌人だろうよ」
 惣玲はどこか誇らしそうな顔で言った。
「長い間神殿で詠歌を教えていたのだが、ある日ふらりと旅立ったまま帰ってこなくてのう。昔から放浪癖の
直らぬ、困った男じゃよ。なんにでも拘束されるのが嫌いでのう」
 そういう惣玲は、懐かしい過去に思いをはせるかのように瞳を細めていた。由貴はその顔を見て、彼とその
紅遙克が浅からぬ仲であることを悟った。
「さぁさぁ、彼が来るまで、各人大いに腹を満たしておいてくれ!」
 惣玲が手を打って声をかけると、人々は待っていたように箸に手をのばし、由貴もそれにならった。やがて
箸が食器に触れ合う音と、人々の談笑する声が会場を満たしていった。




















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