第 二 章







「鈴麗、言っとくけど、今後お風呂はあたし一人で入るから」
宴が開かれる会場へ足を運ぶ途中。廊下をしずしずと歩きながら、由貴は引きつった声でそう言った。彼女の
後ろから静かにつき従っていた鈴麗は、その言葉にきょとんとした顔をする。
「あら、何故ですの?」
「なんでもなにも!あたしはお風呂くらい一人で入れるし、体だって一人で洗えます!手伝ってもらう必要なん
かないの!」
「何をそんなに苛立っておられるのですか。同じ女なのですから、そう恥ずかしがらなくても――」
しかし、振り返った由貴にじろりとにらまれて、鈴麗は口をつぐんで苦笑した。
先刻、部屋に戻った由貴は待ち構えていた女官達に服をはぎ取られ、まるで着せ替え人形さながらに重たい
装束をとっかえひっかえ着せられた。あれのほうが似合うだの、これのほうが気品高いだの言い争っている女
官達のおしゃべりを聴いているうちにうたたねしていた由貴は、気付いたら広い浴場に連れてこられていて、
寝呆けているうちに再び服を脱がされ木造の湯槽に放り込まれたのだった。白濁した湯は不思議な香りがし
て心地よかったが、鈴麗と数人の女官達が一緒に浴場に入ってきて、手ぬぐい片手に由貴の体を洗い出し
たのには閉口した。
必死に抵抗したものの、これが女官の務めだと言われては何も言えず、彼女達の成すがままにされていた
のだが。
由貴はむすっと顔をしかめて不機嫌な声で言った。
「恥ずかしいに決まってるでしょ!自分の裸見られたんだから!」
「あら、恥ずかしがることありませんのに。美しい体付きなんですから」
「そ、そうかな」
急に由貴の声がうれしそうに高くなり、鈴麗は密かにほほえんだ。
「えぇ。その装束も、本当によく似合っていらっしゃいますわ」
「ほんと?っていうかやっぱりー?」
照れ笑いを浮かべながら、すっかりのせられた由貴は嬉しそうに自分が着ている衣服を見下ろした。
先程まで着ていた襦袢とは違い、その服は着物に近かった。十ニ単衣とまではいかないけれども、五重くら
いに着重ねられた着物はずっしりと重く、丈も床に引きずるほど長くて歩きにくいことこの上ない。袖は振り袖
のように長く垂れ下がり、袖口に透ける生地でひだがついている。
装束の色は深い紅で、腰帯は鮮やかな若葉色。布地全体に金で細やかに刺繍を施されたその着物は、
若々しく煌びやかな上に上品なもので、由貴は着せられたときから密かにこの装束を気に入っていた。そして
由貴の髪のほうも丹念に手が施されていた。
鈴麗と同じような形に結わえられた髪は複雑に入り組んだ末、肩にさりげなく流れている。髪が丸くまとめら
れたところには、飴色のかんざしがほどよい配置でさされていて、垂れ下がっている色とりどりの玉が光に反
射して輝いていた。
服のすそを掴んでモデルのように一回転してみせる由貴に、鈴麗は改めて賞賛の視線を送る。
すらりと手足の長い由貴の体は、体の線がわかりにくくなる着物を着ていても十分見栄えがした。薄化粧を
ほどこされた小顔はすっきりと纏められた髪のおかげで大人っぽく、毅然とした美しさに満ちている。
「本当にお美しい…」
 彼女の着付けをした鈴麗は、自分の仕事に満足したようにため息をついた。
「これなら、見た目に無頓着な紫炎でも度肝を抜きますわよ」
「…ねぇ、鈴麗って紫炎とどういう関係?」
 鈴麗の口から紫炎の名前が出たのをきっかけに、由貴はひそかに気になっていたことを、なんでもない風を
装って尋ねた。鈴麗は虚を突かれたような顔をして、妙に口早に答える。
「ただの幼なじみでございますよ。神殿で詠歌を共に習った仲です」
「神殿?」
「貴女様のように歌を歌える者達、一般に巫覡(ふげき)と呼ばれている者達を育てる場所です。因みに、巫
覡の中でも男は『覡(けき)』、女は『巫(む)』として分けられております」
「えっ、てことは鈴麗も紫炎も歌が歌えるの!?」
二人の役職名に巫と覡の文字が混ざっていたのを思い出し、由貴が驚いて尋ねると、鈴麗はどこか誇らしそ
うにうなずいた。
「紫炎はあれでも覡(けき)のなかで最高位の"紫"位なのです。他にも彼は軍を統率する役割をも担っており
ます。臣官のなかで、彼は最年少なんですよ」
「臣官って…つまり結構偉い立場ってこと?」
「王に次ぐ位でございます」
鈴麗の返答に、由貴は思わず目を剥いた。
「あいつそんなに偉い奴だったの!?」
「本人にもあまりそういった自覚はないようですけどね、異様な速さで上り詰めましたから。他の臣官方も目を
見張る出世と襟元を正しておられましたよ」
 まるで自分のことのように顔をほころばせて言う鈴麗を見て、由貴は二人の仲がどんなものかを感じ取って
いた。
 やがて、前方に巨大な両開きの扉が見えてきた。扉の前の通路には、両脇にずらりと武装した衛兵が並ん
でいる。
 彼らはみな一様に厳しい顔をしていたが、しずしずと歩み寄ってくる由貴を見た途端、表情は一変してだらし
なく崩れた。可愛そうなほど顔が朱に染まってしまった若者もいる。しかし彼らのなかの一人がはっと我に返
ったように表情を引き締めると、掲げもっていた槍を床に三度打ち付けた。それが合図だったのだろう、扉の
向こうから盛大な銅鑼の音が響き渡り、その音に合わせるように扉がゆっくりと開き始めた。
 次いで目前に開けた会場を見渡し、由貴は頬を上気させて感嘆のため息をもらした。
まず目に入ったのは、部屋の大部分を占める天蓋つきの大舞台だった。天蓋の四方には豪奢な刺繍が施さ
れた垂れ幕が備え付けてあり、今は舞台の奥側だけが覆われている。
 大舞台は真ん中を広々と空けた状態で、優に二十人ほどの男性がぐるりと居座っていた。大舞台の周りの
一段低い場所には敷物がひかれ、その上に色とりどりの裳衣を着た大勢の女性達が粛然と正座して並んで
いる。
 扉のすぐ横には今鳴り響いている銅鑼と、他に見たこともない楽器が並べられていた。
 会場には談笑する声がさざめいていたが、由貴が部屋に入ってくるのを見ると、水を打ったように静まり返っ
た。うろたえる由貴に、後ろにつき従っていた鈴麗が彼女だけに聞こえるように無声音で指示をする。
「そのまま、階段を上がって舞台にお上がりください。王を前にしたら一礼するのを忘れずに」
 由貴は微かに頷くと、彼女に言われたとおり目の前の階段を上って舞台に立った。舞台の奥に立派な玉座
があり、そこに座る男性がちらりと見えたが、由貴はとっさに視線を下げていた。
 自分に会場全ての視線が集まっているのを感じながら、由貴はその場でできるだけ優雅に頭を下げる。と
同時に、等間隔で鳴り続いていた銅鑼が鳴り止んだ。
 ゆっくりと顔を上げ、意を決して目前にいる皇帝に目を向けた由貴は、しかしあまりの驚きにその場に硬直し
てしまった。
「よく来た、別世の子よ」
 以前にも聞いた台詞を重々しく口にしたのは、誰であろう惣玲その人だった。丁寧になでつけられていた鋼
色の髪は荘厳な飾りが取り巻く帽子で覆われ、着ている裳衣は金箔がふんだんにちりばめられた海老茶色
の着物に変わっている。
 いかにも帝王然とした彼の様子に、由貴はひくりと口元を引きつらせた。
(そ、惣玲さんが王様ってことーっ!?なんでさっき会ったときに言ってくれなかったのよ!)
 由貴の心の叫びを知ってか知らずか、惣玲はまるで今初めて由貴と顔を合わせたかのようによそよそしい
態度で頭を下げた。
「ようこそ、この霞で覆われた世界、創霞国へ。わしは惣皇。この地を統べる立場にある者」
 そこでちらりと、惣玲の口の端にいたずらな笑みが浮かんだ。しかしそれも一瞬で、すぐにまた厳しい顔つき
に戻ると会場にいる全ての人々を見渡して蕩々とよく通る声で言った。
「こちらは南雲由貴殿。もう皆の知ってのとおり、別世から歪みを通って来られた方だ。しばらくここに滞在する
予定である。くれぐれも粗相のないように」
 人々は一様に頭を下げると、やっとつぐんでいた口を開いて隣の者と話しはじめた。
「由貴殿、どうぞこちらに」
 惣玲はそう言いながら自分の隣の座敷に由貴を招いた。澄ました顔を取り繕って座敷に正座し、由貴は横
目で惣玲をねめつける。惣玲はその視線に気付いたのか微かにほほ笑み、
「驚ろいたじゃろ?」
 と肩をすくめながら囁いた。
(狸じじぃ)
 胸中でとんでもない言葉をつぶやき、由貴は人々の反応に目をやった。
 舞台上にいる男性達は、一人を除いてみな中年で、全員が由貴をちらちらと盗み見ながら好き勝手に感想
を囁き合っていた。
「本当にお美しい」
「美女ばかりと謡われるこの宮の巫女たちも薄れますな」
ときどき耳を掠める彼らの称賛の声に、由貴は気をよくして新たな誉め言葉を待った。しかし、次に聞こえたの
は由貴の期待にそれた言葉だった。
「本当に、まるで晃耀の巫女殿の生き写しだ」
由貴は途端、むすっと口を引き結んだ。誰かに似ていると言われるのは自分の個性が欠落した様で不快だっ
たし、まるで自分の美しさが晃耀の巫女のおかげのようで不愉快だったのだ。
(でも、これであたしが晃耀の巫女の生まれ変わりだって言われるのは、彼女とあたしの顔がそっくりなせい
っていうのがわかったわね)
 由貴が一人納得していると、手に手に盆を持った女官たちがぞろぞろと部屋に入ってきて、舞台上にいる者
たちの前に盆を置き、再びそそくさと部屋を出て行った。
 目の前に置かれた盆に載っている馳走に、由貴は目を輝かせた。そういえば、おかゆを口にしてから結構
時間がたった気がする。いい香りが鼻をかすめた途端、由貴はこらえがたい空腹を感じた。
突然、惣玲が両手をかかげ、何か不思議な仕草をした。右手の人差し指と中指で額を触り、次に首の後ろ、
左肩、へその辺りを触り、最後に胸に掌を押しあてると、恭しく頭を下げた。
「神樹の恵みが皆と共にあるように」
惣玲がそう宣うと、その場にいる全員が彼と全く同じ動作をして頭を下げ、
「詠歌の滅する時まで永遠に」
 歌うような口調で唱和した。
あまりにとっさの出来事についていけず、由貴は何事もなかったかのように匙をとり食事に取り掛かりはじめ
た皆をぽかんと見回した。そんな彼女に惣玲が顔を近付けて囁く。
「今のはここ、大森帝界で通例の祈りじゃ。目覚めたとき、健やかなるとき、食す前にも皆必ず祈りを捧げる」
「皆が祈っているのは、その"神樹"っていう大樹なんですか?木が、神様なの?」
純粋な疑問を口にすると、惣玲は意味深な顔で笑った。
「まぁ、待っておくれ。後でその辺を詳しく話してくれる御仁が現われる」
























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