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 扉のない、開け放された城門から一歩踏み出した由貴は、開けた視界に広がる景色に感嘆の声を上げた。
そこは悠然と広がる庭園だった。見たこともない独特な形状の花が所々に群生し、その花に囲まれるように
幾つかの泉が青い空を映しこんでいる。点在する岩や松に似た木はほどよく苔蒸していて、日本庭園のよう
な雰囲気を醸し出していた。
「綺麗!これ全部庭なの!?」
青く茂る草地のうえでくるくると周りながら、由貴は興奮にはずむ声で尋ねる。彼女から少し離れたところにた
たずんでいた鈴麗は、にっこりと微笑んで頷いた。
「この母宮と離れにかけて庭園が広がっております。こちらにいらしてください、下界を見渡せる展望台がござ
いますよ」
そう言ってきびすを返した鈴麗のあとに続きながら、由貴は改めて宮殿を振り仰いだ。
教科書などでしか見たことのないような宮殿が、今彼女の目の前で鮮やかに聳えたっていた。壁は落ち着い
た朱色、空に伸び上がるような屋根は清々しい翡翠色で、まるで竜宮城のような煌びやかさだ。思わず夢見
心地な表情でため息をついて、由貴はこちらを振り返っている鈴麗のもとに駆け寄った。
鈴麗は四本の支柱に円形の屋根が乗せられただけの吹き抜けの展望台にいた。人が三人やっと入れるか
程度のその展望台には石造りの円座がしつらえられていた。どうやらここはちょっとした休憩所のようだ。
「どうぞ、こちらへ」
鈴麗に腕をそっと引かれ、由貴は展望台から身を乗り出して下を見下ろした。
宮殿は切り立った岩山の上に建っていたらしい。展望台の下には緩やかに下る山道が続き、山のふもとには
家々の群生が群がっていた。街はこの岩山から扇状に広がり、家の連なりが升目に見えるほど規則正しい
並び方をしている。
そしてその街の向こうには鬱蒼と生い茂る森林が遥か先の方まで広がっていた。今まで見たこともないその
大規模な森林に、由貴は圧倒されて言葉も出なかった。薄暗い靄に包まれた遠くの森林の先には、惣玲の
窓から眺めた、あの"邪瘴山"が聳えたっている。ふと、山の中腹辺りで何か動いた気がして、見ると象程も
あるずっしりした体系の巨鳥が山の周りを旋回していた。その鳥の首を絞められたような鳴き声に、由貴は思
わず首をすくめた。
「まぁ、膩鳥だわ」
目をすがめて鳥をみやり、鈴麗が嫌悪のこもった声で言った。
「ジチョウ?」
「えぇ、あの鳥は膩鳥という妖魔の一種なのですよ。時々下の街に降りてきては外壁に入り損ねた者を食らっ
ていく、恐ろしい怪鳥ですわ」
街を見下ろすと、街全体を囲むように丈夫そうな石壁が築かれていた。あれが外壁だろう。今は外壁の門は
開け放されていて、人込みが引っきりなしに往来していた。
「夕刻には門が閉められるので、それまでに街の民は急いで用事を済ますのです。太陽が陰ってきますと、
妖魔の動きが活発になるもので」
「へぇー…」
由貴は鈴麗の言葉に頷きながら、視線を目の前の大森林からそらして岩山を抱き抱えるようにして広がる海
に向けた。岩山のそそり立つ絶壁に当たる波は静かで、水面も比較的緩やかに上下している。しかし、海は
ほとんど厚い靄に包まれていて水平線はおろか、岩山付近の波間しか見えない状態だった。
「海の向こうはどうなってるの?他に島はないの?」
ほのぐらい靄に押しつぶされているような海を指差して、由貴が問う。鈴麗は不思議そうな顔をすると、まるで
今初めて海の存在を知ったというように海原へ視線を投げた。
「さぁ…存じ上げません」
「えっ、知らないの!?」
「古くからこの国では海に出ることは禁じられているのです」
鈴麗はどこか恐ろしそうに海を見つめた。
「確かに掟を破って海に出た者はありましたが、結局みな、物言わぬ屍となって浜辺に打ち上げられました。
だから、今の私たちにはこの陸が全て、ここから見える景色が、唯一の世界なのです」
ふいに、鈴麗は好奇心に満ちた瞳を由貴に向けた。
「貴女様のいらしていた世界はどのような場所だったのですか?この国よりも広く、悪鬼などいない平和な世
界なのでしょうか」
彼女の純真な好奇心からの質問に、しかし由貴は答えられずに黙っていた。その沈黙を別の意味でとらえた
のか、鈴麗が慌てて頭を下げる。
「も、申し訳ありません!このような立ち入ったことを伺うなど――」
「あたしの世界は」
 鈴麗の言葉をさえぎって、由貴は口を開いた。
「確かに悪鬼なんかもいなくて、通りを歩いてたらあんな大きい鳥に食べられるとかもないけど…つまんない」
 自分のいた場所とは全く違う世界の全景を前にして、由貴は投げやりに呟いた。
「つまんない」
 言葉とは裏腹に、由貴は下唇をかみしめていた。ふいに湧き上がるように、今まで無意識に見ていただけ
の風景が鮮やかに蘇ってきた。
 変わり映えのしない通学路、退屈な授業風景、上辺だけの友好を見せ付けるクラスメイトたち、がらんとした
玄関、そうだ、いつから「ただいま」を言わなくなったのだろう。誰もいないリビング。テーブルに置いてあるの
は、いつも同じ文句が走り書きされたメモ用紙。あんな汚い字で書くくらいなら、メモなんか残していかなくて
もいいのに。
 一瞬、展望台の手すりに置いた手に違和感を感じた。自分の手を見下ろして、手のひらに零れているひとし
ずくの水滴を訝しげに見つめる。そしてその時初めて、由貴は自分の頬がぬれていることに気づいた。
「えっ、やだ、なにこれ」
 慌てて頬をぬぐって照れ笑いを浮かべようとしたが、それは失敗に終わった。涙は後から後からあふれ出
て、頬をくすぐり手のひらに流れていく。
 まるで張り詰めていたものがぷつんと切れたように、由貴は声を押し殺して泣いた。紫炎の前では警戒心も
あってかたくなになっていた心が、鈴麗の柔らかい人柄に触れてときほぐれたようだった。
『貴方の居場所は、あそこにはない』
 紫炎に投げつけられた、冷たい言葉。それを聞いたとき、由貴は一瞬頭の中が真っ白になるほど憤慨した。
でもそれは、会ったばかりの見知らぬ人物にいきなり無礼極まりないことを言われたからではなかった。それ
が、自分でも気づきたくなかった、本当のことだったから。
 いつも、気が付けば独りだった。それが自分のせいなのか自然にそうなったのかはわからないが、由貴は
常に独りで行動し、独りで決断し、誰の力に頼ることもなく生きてきた。 必要な人なんていなかった。離れた
くない場所なんてなかった。そんな自分を、誰よりも強いと思っていた。
でも、それがこんなに、淋しいことだったなんて。
「…悔しいけど、紫炎に言われたことは本当だなぁ」
「え?」
由貴のつぶやきを、鈴麗が聞き咎めて問い返した。由貴はゆっくりと目の前の景色を見渡し、涙を拭って鈴麗
を振り返る。
「ごめんね、いきなり泣いちゃって」
振り返った由貴は、先程までとかわらない笑みを浮かべていた。
「ちょっと感傷的になっちゃっただけ」
「…寂しいのですか?」
 鈴麗が、顔中に心配そうな色を浮かべて尋ねた。由貴は少し視線を伏せて、悲しげな微笑を浮かべる。
「違うの。全然寂しくないことが、寂しいの」
鈴麗はまだ不安そうな顔をしていたが、由貴が「そろそろ帰ったほうがいいかな」と言うと、「そうですね」と同
意して宮殿の方に歩きだした。由貴も彼女の後に続いて展望台を出る。
その時、ふと背後から執拗に追ってくる視線を感じて、由貴は素早く後ろを振り返った。
そこに佇んでいたのは、一人の黒い長衣をまとった老人だった。しかし由貴が老人と判断したのは長衣から
突き出ている手が枯れ木のようにしなびているからで、顔は目深にかぶった頭巾に隠れていて見えない。無
言で身動き一つせずに立っているその老人を気味悪く思って、由貴は恐る恐る話しかけた。
「あの…あたしになんか用ですか?」
 しかしやはり老人は口を開こうとしない。由貴は首を傾げて、そろそろと老人から離れようと背を向けた、そ
のときだった。
かの地に再び、混沌を兆すのか
 まるで地の底を這う様な声で、老人がそう呟いた。それは独り言ともとれるほど小さな声だったので、由貴
はただ訝しげに老人を見た。
 あるかなしかの老人の肩が、苦しそうに息を吐き出す音と重なった。どうやら笑っているらしい。頭巾から少
し伺える口元は、しわがさらに深く刻まれるほどつりあがって、狂気じみた笑みを浮かべていた。
それもよかろう。最早どこへ逃げようと詮無きことよ。御主はかの地に縛
られておる。逃げられはせぬ
「…な、何を言ってるの?」
 老人の言葉に、由貴はぐっと眉をひそめる。と、宮殿のほうから鈴麗の呼ぶ声が聞こえて、とっさに由貴は
振り返った。
「お早くお戻り下さい、そろそろ試着をしていただきませんと」
「ごめーん、ちょっと待って!」
 返答を返して再び目の前に向き直り、由貴は瞠目した。
 老人の姿は、跡形もなく消え去っていた。























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