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 紫炎に連れられて先ほどの部屋に戻った由貴を待っていたのは、数人の女性たちだった。彼女たちはみな
不思議な形に髪を結い、長襦袢に身を包んでいた。
女性たちはしずしずと二人を迎え、由貴の手をひきながら部屋に入っていく。
「私はここで待っていますから、着替えたら出てきてください」
「え、ちょ、ちょっと…!」
 廊下に立ち止まっている紫炎を振り返り、由貴はこの女性たちはなんなのかを問いただそうとしたが、その
前に部屋の扉を閉められてしまった。所在なげに佇む由貴を尻目に、女性たちはてきぱきと箪笥から衣服を
取り出し、由貴の周りに集まってくる。
「じ、自分で脱げます!」
 由貴が慌てて声をあげたのは、女性の一人が彼女の派手なガラのシャツに手をかけたときだった。女性は
驚いたように目を見張ると、謝るように頭を下げた。
 まるで口を開いたら死んでしまうとでも言うように、女性たちは黙々と由貴に着付けをしていく。着物とは少
し違う、変わった服に袖を通しながら、由貴は彼女たちに声をかけたくてうずうずしていた。しかし重苦しい沈
黙の中で口を開くのもためらわれ、彼女も同じように黙っていた。
 やがて、着付けが終わったのか、女性たちは同時に由貴に頭を下げると、すごすごと部屋を出て行こうとし
た。その背中に、由貴は明るく声をかける。
「あの、ありがとね!」
 振り返ったのは、先ほど由貴の服を脱がそうとした女性だった。透けるような白い肌に明るいとび色の瞳が
美しい女性は、じっと食い入るように由貴の顔を見つめていたが、ふと微笑んで深ぶかと頭を下げた。
(なんでみんな、あたしにお辞儀なんかするんだろ)
 その女性が部屋を出て行くのを見送りながら、由貴は一人首をひねっていた。突如異世界から迷い込んで
きた少女相手に、ここまでしてくれるのはえらく親切な気がする。
 廊下で壁にもたれかかっていた紫炎は、翡翠色の長襦袢に身を包んだ由貴を見て、微かに目を見開いた。
「見て見て!似合う〜?」
 ふわりと裾を広げて、由貴がにっこりと微笑む。しかし彼はにこりともせずに「えぇ」と応えると、素早く踵をか
えして廊下を歩き始めた。
「どうぞこちらへ。"彼"のもとに案内します」
「…なんかほかに言うことないのかよっ」
 ふてくされた顔で呟くが、紫炎は聞こえなかった様子で足早に廊下を進んでいく。由貴は着慣れない服の
裾をつかみあげ、固い靴の感覚に眉をひそめながら彼のあとを追った。
 現在の時刻はどうやら早朝らしい。先ほどまで全く人気のなかった廊下は、どことなく眠そうな顔の人たち
が往来して活気に溢れ始めていた。
 由貴は、すれ違う人たちが決まって自分の顔をまじまじと見ていることに気づいた。皆一様に、畏怖の念に
打たれたような感慨深い顔をしていて、ある人などは、由貴を見た途端ハッと鋭く息を呑んで、紫炎に睨まれ
即座に顔を背けた。由貴はその異様な注目に戸惑いつつも、彼らを何気なく観察していた。人々にはどこか
共通の雰囲気があって、目鼻立ちの整った顔は気品高く、着ているものは由貴と同じような長襦袢で、人に
よって服の色はさまざまだ。そして彼らは、必ず紫炎に対して大げさなくらいお辞儀をした。
「紫覡斗どの」
 時にはおずおずとそう呼びかけて会釈する者もいた。そんな挨拶に対して、紫炎はいちいち無表情の会釈
を返していく。
 無愛想な奴、と思いながら、由貴は紫炎の"紫"という位が高いことを知った。
そういえば、平安時代の日本でも、紫という色は位が高い者が身につける色だと習った気がする。ここの人た
ちは色で位が分かれているのかもしれない、と由貴は自分なりに解釈した。
 由貴たちはやがて、人気のない廊下に入っていった。
「ねぇ、紫炎」
 すれ違う人がいなくなり、興味の対象を失った由貴は、黙々と歩いていく紫炎の背中に声をかけた。「なん
です」と振り返らずに応える紫炎に、由貴はふと浮かんだ強い疑問を口にした。
「どうして、あたしを助けたの?」
 紫炎は振り返らなかった。しかしその肩がかすかに震えたことに、由貴は目ざとく気づいた。
「あたしがこっちの世界の人間だーとかいう意味わかんない話は置いといて、そもそもなんであたしの居場所
がわかったわけ?それに、どうしてあんな危険な場所に踏み込んでまで、あたしを助けたの」
「見捨てたほうがよろしかったか」
「話をはぐらかさないで!」
 紫炎は短くため息をつくと、やはり振り返らないまま歩調を速めた。
「昨日、時空の歪が開き、貴方の世界と通ずることは瑠璃玉の巫女殿の"夢見"によって一月前から判ってい
ました。貴方の居場所も、彼女の示した方角に進めば見つかることは判っていた。私が一人で踏み込んだの
は、ただ単に歪が小さくて二人通るのがやっとだったというだけです。それに…」
 紫炎はそこで口をつぐみ、廊下を右折して立ち止まった。どうやら目的の場所に着いたらしい。しかし辺りに
は扉も階段もなく、ただ石造りの壁が連なっているだけだ。
 紫炎は由貴を見下ろし、固いまなざしを向けた。
「言ったでしょう、貴方は特別なんです。貴方は自分では計り知れぬほどの力を持っている。その力が、今の
わが国にはどうしても必要なのです」
「計り知れない…力?」
 由貴はまじまじと紫炎の顔を見た。あやうく妖魔に殺されそうだった自分に向かって、彼は何を言っている
のだろう。妖魔を一薙ぎにして屠っていた、彼のほうが断然強いだろうに。
「あたし…そんな力持ってない!」
「貴方は、気づいていないだけだ。そのうち嫌でも自分の力を知ることになりますよ」
 紫炎は脅すようにそう言うと、やおら手をかざして目の前の壁に触れた。
 すると、何もないはずの壁が突如青銅色に輝きだし、まるで熱された氷のようにとけだした。由貴はその信
じられない光景に思わず息を止めて見入っていた。
 二人が通れるほどの入り口をぽっかり開けて、壁はあっという間に消えてしまった。何食わぬ顔でその入り
口に入っていく紫炎に、由貴も慌てて後を追う。壁の中に入ってふと振り返ると、溶けたはずの壁が、今度は
ものすごい速さで再生していた。それもやはり水が急速に氷になるような様子で、固まると、それは元の何の
変哲もない石に戻っていた。
 入り口が完全な石壁に封じられると、辺りは暗闇に包まれた。しかし、すぐに両脇の壁に等間隔に光が灯
り、二人の行く先を照らし出した。壁にはたいまつも何もなく、やはり壁自体が光っているようだ。
「…なんなのよ、ここは」
 先ほどからの理解できない現象に、由貴は疲れた声で呟いた。この世界は由貴の思っていた以上に摩訶
不思議な場所らしい。しかし紫炎はその呟きを別の意味で捉えたのか、
「彼の書斎には貴重な蔵書が数多く保管されているので、安全をとって隠し部屋にしたのですよ」
 そう応えた。
 廊下を左に曲がって、突如開けた視界に広がったのは、不思議な形の本棚に囲まれた部屋だった。部屋
は青白い光に包まれていて、見ると床全体が発光している。
 本棚は一辺五センチくらいの正方形に区切られていて、そこに纏められた巻物が一本ずつぴったりと収まっ
ていた。黒塗りの本棚一つにぎっしりと並ぶ巻物はおよそ何十本とあるのだから、部屋にずらりと並ぶ本棚の
巻物を統計したらすごい数になりそうだ。
「惣玲殿、ただいま参りました」
「おぉ、紫炎か。すまんが、上がってきてくれんか」
 部屋に進み出た紫炎が呼びかけると、すぐに上のほうから返事が返ってきた。見上げると、壁の一部が外
側に迫り出す形で、もう一部屋あるようだ。紫炎は由貴に目配せすると、壁に備え付けてあるはしごを上り始
めた。
由貴も後を追って上り始めたが、服のすそが長くて上りにくくてしょうがない。困って由貴がはしごの途中で立
ち往生していると、上から紫炎の手が無言で突き出された。由貴も無言でその手をとり、はしごを上りきる。
 部屋は屋根裏部屋のようにこぢんまりとしていて、置いてある調度品といったら人がしゃがんで丁度ひじの
辺りまでしかない文机と、数枚の座布団だけだった。そして、その文机の前に座り、なにやら深刻な顔をして
いる老人がいた。
 混じりけのない銀髪を丁寧に後ろでなでつけ、襟足できっちりと束ねたその老人は、厳粛そうな鉤鼻の奥に
鋭い灰色の瞳を持っていた。その瞳は文机の上にある巻物に注がれているにも関わらず、由貴は彼に睨ま
れた様に立ちすくんでしまった。彼には何かしら、逆らいがたい雰囲気が備わっていた。
「何用だ?今手が離せないのだが」
 巻物から目を離さないまま、老人が尋ねる。紫炎は床にひざまずくと、由貴にも倣うように視線を投げかけ
て、恭しく頭を下げた。
「惣玲殿、例の別世の少女を連れて参りました」
 突然、老人がはじかれたように顔をあげた。射るようなまなざしをしていた鉛色の瞳が、由貴を見た途端に
大きく見開かれ、白いひげに包まれた口元から小さな呟きがこぼれた。
「俊玲…!」
「え?」
 由貴が老人の呟きを聞きとがめて、訝しげな顔をする。しかし老人はハッと口を閉ざすと、慌てて立ち上がっ
て二人に歩み寄った。
「すまない、客人にはしごを上らせるようなことをして。さぁさ、そんなに畏まらないで」
 そういいながら、老人は座布団を一つ掴んで由貴の前に置いた。由貴は言われたとおりおずおずと座布団
に正座し、紫炎は部屋の隅に退いてあぐらをかいた。そこが彼の定位置らしい。
「よくぞ参った、別世の子よ。わしの名は惣玲。そなたが現れるのを、どれほど心待ちにしていたことか」
 老人が立ったまま由貴にお辞儀すると、彼の纏っている長い襦袢が、さらさらと音をたてて床に広がった。
由貴も慌てて頭を下げる。
「はっ、初めまして!南雲由貴と申します」
「ほう…長い名だのう。由貴でよろしいか?」
 白いあごひげをしごきながら、惣玲が問う。由貴はもちろんと言うようにうなずいた。
「そうか、では由貴。改めてそなたを迎えよう。わが国、霞に覆われたこの"創霞国"に」
「創霞国…」
 由貴は惣玲の言葉を無意識のうちに繰り返していた。惣玲が重々しく頷く。
「さよう。由貴はまだ、ここのことをよく知らないであろう。差し支えなければ、わしがこの国について語っても
いいだろうか」
「えぇ、是非教えてください」
 由貴が再び頷くと、惣玲は文机の上の巻物を収めて、別の巻物を解き広げた。そこには墨による地図が描
かれていた。創霞国の地図だろう。創霞国の地形は、まるで卵を抱える鳥のような形をしていた。その鳥の
頭の部分、背中の部分、尻尾の部分、翼の部分にそれぞれ国名が書かれているらしいのだが、由貴にはそ
の文字が読めなかった。
 惣玲がその場所を点々と指差し、国名をあげていく。
「創霞国は全部で五つの地区に分かれておる。(鳥の頭)"大森帝界"、(背中)"水磨界"、(尻尾)"風陣界
"、(翼)"炎舞界"、そして」
 惣玲が最後に指差したのは、陸地の真ん中、何重にもひかれている曲線のかたまりだった。確か、この曲
線は山の傾斜を表していたはずだと思うものの、その曲線の重なりは異常なものがあった。こんな山は存在
するはずがない。
「そしてこれが、"邪瘴山(やしょうさん)"。この山が大森帝界と炎舞界を完全に切り離しておる」
「えぇっ、これ山なんですか!?」
「さよう。なんなら自分の目で確かめるがよい」
 惣玲はそういうと、由貴の手をとって立ち上がらせ、部屋にある円状の窓に導いた。
ただ木枠がはめられているだけの窓から外を見て、由貴は信じられない光景に目をむいた。
 窓外に広がる大森林。その向こうに、まるで巨大なこん棒のように山が突き立っていた。山――いや、それ
は到底山とは言えないものだった。峰と呼べるような場所は見当たらず、異常なほどの傾斜を伴って空に伸
びる山には、頂上というものがなかった。いくら目をこらして空を見上げても、山は厚く垂れ込める雲の中に消
えている。山は薄黒い霧に包まれて、まがまがしい気配に満ちていた。
「な、なんなのあの山!」
 思わず叫ぶ由貴に、惣玲は物憂げなため息を吐き出す。
「あれこそが悪の根源、この世で最も忌まわしき存在じゃ。あの山の頂上から常に"魔羅の吐息"が吐き出さ
れているせいで、山には妖魔が溢れかえっておる。そして吐息はとうとう山を越えて四つの国にも被害を及ぼ
し始めた」
「魔羅…悪鬼」
「そう、あの山のいただきには、悪鬼が眠っているのだ」
「悪鬼が?」
 惣玲は頷くと、文机に戻って、由貴に地図を指し示した。由貴も座布団に座りなおして彼の手元をみつめ
る。
「四つの国には、それぞれ四本の大樹が植わっておる」
「大樹?」
「神がこの世界をお創りになるとき、地を支えるためにたてた木、それが大樹じゃ。大樹はそれぞれ魂を持
ち、役割を持つ。大森帝界の大樹は"神樹"といって、この国を統べる役割を持つ。水磨界は"澪樹"で、人々
を守るため、風陣界は"饒樹"、国に富をもたらす、炎舞界は"烈樹"、国を守るために戦う、といったようなもの
だ。そして、邪瘴山にも大樹が植わっておる。"魔羅の木"と呼ばれていて、役割は、白い舟を支柱となって支
えること」
「白い…舟」
「悪鬼を封じ込めている舟のことじゃ。合計五本の大樹は、白い舟がこの地に降りないように上空で支えてお
るのだ」
 由貴は惣玲の言っていることが理解できなくて黙り込んだ。悪鬼やら白い舟やらまるでお伽話のような出来
事を、そんな真剣な顔で説明されても気分的にすんなりと受け入れられない。
 すると惣玲は由貴の戸惑い気味の顔に気づいたのか、思慮深い顔で彼女の顔を見つめた。
「…由貴、おそらく妖魔を見たであろう。あの禍々しい生き物を。生きるものの命を奪うことしかできない憐れ
な生き物を。あれらは全て、悪鬼の眠る白い舟から溢れた黒霧から生まれたのだ」
「えぇ、紫炎から聞きました」
「そうか」
 惣玲は静かにうなずくと、立ち上がって窓に歩み寄った。山を見つめる彼の目は、哀しみに満ちていた。
「悪鬼は、何百年にも渡ってこの創霞国を苦しめてきた。人間は悪鬼が生まれたはるか昔から、いろんな手を
尽くして奴と戦ってきた。しかし、悪鬼の力は莫大で、到底人間が太刀打ちできるようなものではなかったの
だ。悪鬼は何世代に渡って村を焼き払い、罪のない女子供も容赦なく殺し、虐殺の限りを尽くしてきた。人々
は悲嘆にくれ、絶望し、そしてやり場のない憎しみを募らせていった。…何もかも、何もかもを奪っていったの
だ、悪鬼は」
 惣玲は山から視線をそらし、由貴を振り返った。
「そなたの国には、そのようなものはないのか」
 え、と由貴は顔をあげて、深い静寂をたたえた灰色の瞳を見返した。
「人々を恐怖に落としいれ、ただわけもなく全てを奪っていく。…そんなものは、そなたの国には存在せぬの
か」
 由貴はハッと息を呑んだ。忌むべき存在。それは、由貴の暮らす世界にもあったではないか。
 領域を広げたい、もっと自分たちの暮らしを豊かにしたい。野心溢れる一握りの人間の都合で、一体世界中
でいくつの戦いが起こったのだろう。何人の人が死に、いくつの悲劇が生まれただろう。ただ平穏な暮らしを
送れるだけで満足だったのに、『お国のため』という大義名分を担がされ、強制的に戦場に駆り出され、家族
や友達全てを奪われ、そして残ったのは、敵国に対する憎しみ。ただ戦いを広げる要因となる感情、それだ
け。
 全てを奪っていく化け物。この"戦争"というものは、悪鬼とそう違うものだろうか。
「…私の国にも、悪鬼に似たものが存在してます」
 由貴の応えに、惣玲はただそっとうなずいた。どうやらその答えを予想していたようだった。
「どの世界にも、必ずそういったものは存在しておる。ただ、それがどういった形で存在しておるかどうかじゃ」
 由貴は、惣玲の人を納得させる力に感銘を受けながら、大きくうなずいた。たまたま、この創霞国という世界
では悪鬼という形で、由貴の世界では戦争という形で存在しているだけなのだ。人々を苦しめる、『悪』という
ものの象徴が。
「確かに、見たことのないものを信じて欲しいというのは酷かもしれん。まだ妖魔も見たばかりで衝撃も覚めや
らぬだろう」
「いいえ、信じます」
 先ほどとは打って変わって自信に満ちた由貴の様子に、惣玲は「ありがとう」と小さく微笑んだ。





















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