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 その夜、由貴は夢を見た。
周りには静かに青い光が揺らめいていて、どこかとらえどころのない夢だった。時々人の顔がぼんやりと浮か
んできては、水面に映る虚像のようにゆらりと掻き消えていく。由貴はいくら目を凝らしても、その人物の顔を
見ることができないのに気づいた。
『早く来て』
 その顔が浮かび上がるたびに、由貴は痛切に自分を求める声を聞いた。そして声と一緒に、不思議な旋律
の歌を聞いた。その歌は人間のものとは思えないほどの高音に達しては細く震え、低音では優しくなめらかに
聞く者の耳朶をなぜた。
 今までに聞いた、どんな歌ともその旋律は違っていた。賛美歌のようだが、どこか物悲しい、お経にも似たそ
の旋律を、由貴は以前に聞いたことがある気がした。
 突然、その静かな夢は、不気味な黒雲によって覆い隠された。黒雲はあっという間に由貴の周りを取り囲
み、だんだんと炎のように赤くなっていった。
(こ、これ…さっきの空にあった雲と同じ――)
 雲が由貴を中心に渦をまき始めると、由貴はすくみあがった。その雲に対して、得体の知れない恐怖を感じ
たのだ。
 と、目の前の雲が揺らぎ、何かの影が浮かび上がった。その影もさっきの顔と同じように頼りないものだった
が、由貴はその影がゆっくりとこちらに近づいてくるのを見ると、必死であとずさって悲鳴をあげた。しかし、声
は喉の奥に張り付いて出てこない。
 雲の中で、赤い光が二つ灯った。その爛々と輝いている光は、ともすると何かの瞳のように見える。二つの
光はゆっくりと近づいてきて、とうとう雲を突き抜けた。
 その影の正体を見た途端、由貴の顔から血の気が引いた。喉に貼りついていた悲鳴がやっとの思いで搾り
出され、長く尾を引き――
 由貴はベッドの上で飛び起きた。
 荒い息をついてあたりを見回し、そこが自分の部屋だと確認すると、由貴は長いため息をついてベッドに倒
れこんだ。まだ動悸が激しい。飛び起きるほどの悪夢を見たのは、小学生のとき以来だった。
 由貴は上体を起こしてベッドに腰掛けると、ぼんやりと視線をさまよわせた。部屋はものの輪郭がなんとなく
認識できる程度の暗さで、カーテンの開け放された窓からは一筋の光も差していない。息苦しいほどの暗闇
の中で、由貴は再びため息をついた。
(なんか今日のあたし、おかしいよな。風邪でもひいたかな)
 額に手を当ててみるが、熱っぽい感じはしない。由貴は立ち上がると、自分がまだ制服を着たままなことに
気づいて手近にあった服に着替えた。あの空を見て動転したまま帰り、現実逃避よろしく即座に寝入ったこと
を思い出す。
 窓に近づいて空を見上げたが、月もなく星が一つもないことを覗けば、夜空はいつもどおりの様子だった。
(やっぱりあれは見間違いだったんだ。ちょっと疲れが溜まってたんだよね)
 そう自分に言い聞かせ、由貴は部屋を出た。先ほどの悪夢から遠ざかるため、外の空気を吸おうとベランダ
に向かう。
 途中、リビングのテーブルの上に置いてあるメモ用紙を見つけて、由貴は文面に目を通しもしないでそれを
手に取り、くしゃりと丸めた。
「ふんっ」
 鼻を鳴らして、丸めた紙をゴミ箱にほうる。
 ベランダへのドアを開けると、思ったより冷たい夜風が頬をなぜた。一瞬身をすくめて、腕をさすりながら外に
出る。辺りはしんと静まり返り、むしろ耳鳴りが気になるほどだ。
 由貴はその時違和感を感じた。いつもはこんな深夜でも、前の道路にはひっきりなしに車が通っていたし、ベ
ランダから見渡す景色には、必ず一つや二つ明かりが灯っていた。
 しかし今夜は、あたり一面停電になったように真っ暗で、車が通る音はちらりともしない。その不気味な様子
に、由貴は不安が広がるのを感じた。
 きっとさっきの悪夢で神経質になっているのだろう、と思い直し、由貴はベランダの柵にもたれかかった。
(そういえば…)
 ふと、由貴は先ほどの夢で聞いた歌のことを思い出していた。
(あの歌、絶対どっかで聞いたことあるんだよなぁ。でもオペラって感じでもないし、歌謡曲なんかには絶対な
いタイプだし…)
 考えているうちに、由貴は自分でも知らない間に歌の旋律をハミングで口ずさんでいた。やはりその旋律は
独特で、聞く者の心を捉えるような不思議な魅力を備えていた。由貴は、だんだんとその歌に引き込まれてい
くのを感じた。ハミングなんかでは物足りない気がして、由貴はそっと声を出し始めた。途端に、彼女の顔が驚
愕に強張る。
(なにこの声!?私の声じゃない…!)
 独特の美しい旋律をつむぎだすその声は、由貴の意思とは無関係に口から流れ出た。その声は普段の自
分の歌声とはかけ離れていた。到底出せないような高音ものびやかに響き、信じられないほどの低音も力強
く響き渡る。そしてその声が音をつむぐたびに、何か別の音――周りから響いてくる細い音が、合唱のように
共鳴してくるのだ。
 声と音の重なりはだんだんと激しくなり、人の能力を超えた荘厳な歌をつくりだした。由貴は歌にすっかり魅
了されていて、その歌が回りに及ぼしている影響に気づいていなかった。
 最初に変化したのは、ベランダに置いてあるプランターの植物だった。まるで歌声になでられたように草花が
そよぐと、まだつぼみだった花がゆっくりと花開き、開いている花はなおいっそう美しさを増しだしたのだ。ただ
の雑草もすごい勢いで伸び始め、急激な根の成長に、プランターが耐え切れなくなったか、ぎしぎしときしん
だ。
 また、そよぐ風も歌が大きくなっていくうちに強さを増していった。由貴を中心として、台風のように風が激しく
渦をまいていく。
 そして、その風に巻かれるように、黒い雲が由貴を取り込み始めた。それが雲というよりは靄のように薄いも
のだったからか、歌に夢中になっている由貴は周りの状況に気づかない。
 黒雲は厚さを増していき、由貴が気づいたときにはあの夢で見た状況に陥っていた。
「な、なんなのよ、これ!」
 ひきつった声で叫ぶと、歌はやっと止まって、草花の成長も止まった。とっさに目の前の雲から逃れようと、
自分が取り囲まれていることも忘れてあとずさる。
 突如、首筋の毛が逆立つような悪寒を感じて、由貴は素早く後ろを振り返った。すぐ近くに迫った黒雲の中
で、二つの赤い光が輝いている。恐怖に足がすくんだままその光を凝視しているうちに、光が獣の瞳であり、
大型犬ほどもあるその獣が雲の中で自分をねらっていることに気づいた。しかし、足は地に根が生えたように
動こうとしない。
「こ、来ないで…!」
 獣に向かって発した声はかすれていた。黒雲が揺らぎ、獣の顔が突き出し、立ちすくんでいる由貴に向かっ
て身の毛もよだつ咆哮をあげた。
(これは夢だ)
 狼のような風貌をした獣の牙をぼんやりと見ながら、由貴は自分に何度も言い聞かせていた。これはあの夢
の続きなのだ。自分に向かってくるこの牙も、体に触れればすぐ消えてなくなる。
 視界いっぱいに、獣の口の中がリアルに広がった。隙間なくびっしり生えそろっている牙の間から、異様に
長い舌がグロテスクにうごめいている。由貴は固く目をつぶった。
(これは夢――!)
聴覚だけになった由貴の感覚が捕らえたのは、顔面を襲う痛みではなく、何かが切り裂かれる音だった。続い
て顔に生暖かい液体がふりかかる不快な感触。由貴はとっさに悲鳴をあげながら液体をぬぐって、涙をためた
目をこじ開けた。
まず目に入ったのは、力なく横たわる獣の死体だった。そして、死体の横で鈍く光っている細長い刃物。あま
りに見慣れないものなので、由貴は最初それが太刀だということに気付かなかった。
刀を見て戦慄した次の瞬間、由貴は乱暴に腕をつかまれ引っ張りあげられた。
驚いて自分の腕をつかんでいる人物を見上げた由貴は、闇の中にぼんやりと浮かび上がる顔に息を呑んだ。
 自分をにらみつけていたのは、目をみはるほど端整な顔立ちをした若い男だった。あまりに白く美麗な顔な
ので、女と勘違いしたかもしれない。しかし長身の彼の体は、細いながらもしっかりとした男の骨格をしてい
た。その身を包むのは、奇怪な服装だった。日本史の教科書なんかで見るような、小袖に細身の袴のようなも
のをはいている。
 男の切れ長の目が、由貴を見てすっと細まった。
「なんて馬鹿なことを!」
 男が発したのは、由貴を案じる声ではなくて、叱咤の声だった。何に対しての叱咤なのかわからない由貴
は、ただ目をむく。
「はぁ!?あ、あたしがなにしたって言うの!?」
「こんな状況で歌を詠唱するなど…!奴らに居場所を教えたも同然ではないですか!」
 男の言っていることが理解できなくて、由貴はただ呆然と男を見返した。男はふと顔をあげ、辺りを覆ってい
る黒雲を見回すと、舌打ちして由貴の腕をつかんだまま走り出した。
 悲鳴をあげる間もなく、由貴は黒雲を通り抜けた。言い表しようのない怖気が背中を伝ったが、二人はなん
なく雲を抜けた。しかし男はそのまま家の中へ駆け込む。
「ちょっと、人ん家に勝手に入らないでよ!」
 由貴が怒鳴っても、男は意にも介さず家の中を走りぬけ、玄関のドアを開けて外に飛び出した。目の前に広
がった外の景色に、由貴は自分の目を疑った。
「なに…これ」
 力なく呟く由貴のまわりには、さきほどの黒雲がまるで霧のように辺りに立ち込めていた。由貴たちを待って
いたかのように、黒雲の中でいくつもの赤い光が灯る。
「駆け抜けます。しっかり自分についてきてください」
 男が声を低めて由貴にささやいた。由貴がうなずいた途端、男は素早く刀を引き抜いて走り出した。
 男に腕をひっぱられてがむしゃらに走るうち、由貴は街が変に寝静まっていることに気づいた。辺りに全く人
気がないのである。おまけに霧がどんどん濃く街を覆っていくため、由貴は自分が今何処を走っているのかさ
っぱりわからなかった。まるでこの世に自分と突然現れたこの奇怪な男――またおぞましい獣たち――だけ
のような気がしてくるのであった。
 黒雲からはひっきりなしに獣が飛び出してきたが、男はそれらを一薙ぎで屠っていく。その鮮やかな剣さばき
に感心しながらも、由貴は息苦しいほどに濃くなっていく闇に不安を抑えられなかった。もはや足元にまで黒
い霧がからみついてくる。
 やっと男が足を止めた。荒い息を整えようとしている由貴を振り返って、唐突に問いかけてくる。
「一応聞いておきますが、無論この危険な場所に残るつもりはありませんよね?」
 視線を由貴から離さないまま、男は刀を持っていないほうの手を宙で複雑に動かし始めた。その動きに目を
やった由貴は、何もないはずの宙が彼の手の動きにあわせて揺らめいていることに気づいた。その場だけ雲
が晴れ、白い光で溢れた空間が生まれ出た。
「どういう、意味よ」
 息に声を弾ませながら、由貴が警戒心のこもった瞳を向ける。男は眉を跳ね上げると、横から忍び寄ってき
た獣を見もせずに切り捨て、刀についた血を振り払いさやに収めた。
「貴女の選べる道は二つに一つ」
 男の細長い指が、すっと二本のびる。
「ここに残って餓狼の餌食になるか、安全な場所に逃げ延びるか」
 さぁどうすると言わんばかりの彼の顔は、暗にどうすべきかを由貴に訴えかけていた。しかし、背後には闇に
覆われた街しかないことを知りつつも、由貴は男から一歩退いていた。彼女の顔には、彼女自身にも理解でき
ない恐怖が広がっていた。
 なぜか彼の手をとってしまったら、もう二度と今までの生活に戻れない気がしたのだ。自分がとてつもない事
態に陥っている気がして、由貴はただ首をふっていた。
「私はどこにもいかない…!」
 狼の遠吠えのような恐ろしい声が、背後で轟いた。由貴の声がふいに弱弱しくなる。
「どこにも…」
 男はため息をつくと、肩をすくめてみせた。
「では、致しかたありませんな」
 てっきり男が独りで白い空間に消えるのだと思った由貴は、男が素早く自分の腕をつかみ、踵をかえして白
くゆらめく空間に走り出したのを見て必死で抵抗した。
「行かないって言ってるでしょ、離してよ!!」
 しかし男の力は驚くほど強く、由貴は悲鳴を上げる間もなく真っ白い光の中に引きずり込まれた。水のような
ひんやりとしたものが全身を包み込み、由貴は固く目をつぶる。男に腕をつかまれている感覚だけが確かなも
のだった。
 やがて、ゆっくりと体が浮上してくような感覚が襲った。ふいに息苦しさを感じ、息を吸い込もうとした由貴は
思いっきりむせた。いつの間にか、由貴たちは本当の水の中にいたのだ。どんどん口に流れ込んでくる水に対
応しきれなくなったとき、由貴は再び力強く腕をひっぱられ、水面から水しぶきを散らして顔をだした。
 由貴は数人の手によって陸に引き上げられるのを感じていた。まだ腕をつかんでいる男の腕をふりはらった
ものの、突然のめまいに襲われて由貴はその場に倒れこんだ。
 激しく咳き込む自分の背中を優しくさする手を感じて、由貴は振り返った。かすむ視界にぼんやりとうつった
のは、男のやや心配そうな顔だった。由貴はその顔に向かって恨みのこもったまなざしを向ける。
「なんてことしてくれたのよ…!この人攫い!」
「それはまたひどいいい様だ。これでも私は貴女の命を助けたと自負しているのですがね」
 男はとりすました様子で応えた。それに対して怒声をあげかけた由貴は、しかし体中から力が抜けていく感
覚に耐え切れず、再び地に伏せた。由貴は夢の中で聞いた、あの歌が辺りに鳴り響いているのに気づいた。
そして夢の中で見た青い光が視界にゆらめいているのも。
「あんた…名前くらい教えなさいよ…」
 由貴は残った気力を振り絞って、自分を抱き起こした男を問いただした。男はしばし沈黙し、やがて静かに、
厳かともとれる口調で答えた。
「役は覡斗(げきと)、位は紫。紫覡斗――紫炎、とお呼びください」
 自分の体が持ち上げられ、何人かの手によって運ばれていくのを感じながら、由貴は沈んでいく意識のなか
で男の名前を反芻していた。懐かしい響きのある、その名前を。
























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