序  章





 教室には、沸々とした苛立ちが漂っていた。季節は夏、大気は蒸し暑くよどんでいて、蝉の力強い鳴き声が
途切れることなく聞こえてくるのだから、それも当然だった。
「えぇっと…なので、つまりは、これがこうなっているので――」
 おまけに、壇上の新任教師の説明は、彼自身も理解できていない様子である。先ほどから言っていることが
堂々巡りしている教師の背中に、生徒たちのしらけた視線がじっと集まっている。
「というわけで、これが回答になる――あ、あれ?計算があわない…」
 やっとノートに書くべきものが出てきたかと顔を上げた生徒たちは、はためにもうんざりした表情でペンを放り
投げた。「やってらんねーよなぁ」と小さく呟くものの、教師を正面きって罵倒するものはいない。皆、無言の非
難をこめて教師をにらみつけている。
 それに気づいているのかいないのか、新任教師はさんざん書き連ねた計算式をクリーナーで消し、再び問題
に取り掛かり始めた。
「も、もう一度やり直してみますね!えーとこれがこうなって――」
 その時、どんよりした空気を切り裂き、何かが教師の後頭部に炸裂した。
教師の頭はそのまま勢いよく黒板に叩きつけられる。衝突音が響き渡る中で、生徒たちはあまりに突然の出
来事にぽかんと口を開けて教師を見つめた。
 教師はしばし硬直していたが、やがて腰をかがめ、自分の頭に直撃した何かを拾い上げた。彼の震える手
に握られていたのは――履き古された上履き。
「だっ、だだだ誰のですか、これは!」
 彼の語尾が甲高く裏返ったことに、生徒たち全員が声をあげて笑った。そんな中、一人の生徒がすっと立ち
上がり、腰に手をあてて教師を真正面からにらみつけ、口を開いた。
「あたしの靴に触んないでくれない、ヘボ教師」
 痛切な台詞がこぼれ出たのは、形のよい桃色の唇だった。こじんまりとした卵型の顔の中では、アーモンド
形の大きな目が挑発的に教師を見つめている。
「南雲さん…!こ、今度と言う今度はもう許しませんよ!一体何度私を侮辱すれば気がすむのですか!後で
校長先生にご申告します!」
 顔を真っ赤にして、上履きを振り回しながら絶叫する教師に、南雲と呼ばれた女子生徒――由貴はふんと鼻
で笑った。
「申告でも何でも勝手にしてれば?あんたのへったくそな授業受けるくらいなら家で勉強したほうがマシよ」
 そういうと、彼女はうすっぺらい鞄を肩に担いで颯爽と教師に歩み寄った。思わず後ずさりする教師に、由貴
は悠然と右手を差し出す。とっさに持っていた上靴を彼女に返してしまい、教師は顔を赤らめた。
「ちょっと、何処行くんですか!?」
 教室のドアを開けようとしている彼女の背中に、教師は引きつった声で尋ねた。由貴は振り返ると、
「時間が無駄になるから帰らしてもらいます」
 明らかに教師を馬鹿にした目つきで言い放ち、教室を出ようとした。しかし、思い直したように再び振り返り、
教師に指をつきつける。
「それと、先生。言っておくけど、その問題の答えは'√2/3'よ。先生が間違えたのは三行目の計算ね。こんな
問題で馬鹿間違いしないでよ。そんじゃ、さよーなら」
 由貴はそういい残すと、少しもためらわずに教室を出て行った。少しの間呆然とした顔で佇んでいた教師も、
ハッと我に帰り慌てて彼女の後を追いかけていった。取り残された生徒たちは、教師がいなくなった途端にお
互い顔を見合わせて忍び笑いをもらす。
「まーたやっちゃったよ、南雲由貴」
「でもさー、山根のあの顔見た?ちょっといい気味じゃなかった?」
「まーな。でも南雲の奴もいい加減やめないとほんとに辞めさせられるんじゃねぇの?」
「ねぇー。なんかあの子って人生投げてる感じだよね。見た目も馬鹿っぽいし、いかにも遊んでそー」
 校庭を大またで歩き去っていく由貴のすらりと伸びた手足を疎ましげに見下ろしながら、独りの女子生徒が
呟いた。数人の女子がそれに同意するが、ある男子生徒がそれに対して応える。
「でもあいつ、いつも成績上位に入ってるぜ。馬鹿なわけじゃないだろ」
「とか言って浜田、あんた南雲のこと好きなんでしょ?ったく、男って顔が良ければ簡単に惚れちゃうんだから
ねー、やだやだ」
 浜田と呼ばれた男子は顔を赤らめてそっぽを向いた。どうやら図星だったらしい。しかし今度は数人の男子
が彼を弁護するように呟いた。
「でも、南雲って確かに美人だよな?」
「あぁ、しかもスタイルだってなかなかじゃん?どっかの誰かさんよりはよっぽど目の保養になるって」
「あぁん?信吾、今なんで私のこと見てたわけ?」
 仲のよい男女二人が馴染みの口げんかをしていると、教師が息を切らして教室に戻ってきた。無言でしらけ
た視線を送ってくる生徒たちに、教師は顔を真っ赤にして手を振り上げる。
「さぁ、授業に戻りましょう!!」





「まったく、バカらしいったらありゃぁしない」
 後ろから教師が追ってこないのを確かめて、由貴は正門を乗り越えた。短いスカートについたほこりをはらい、
白い校舎に侮蔑の視線を向ける。
 彼女は学校のすべてを軽蔑していた。新任教師の最悪な授業も、そんな彼に苛立ちを募らせながらも反論し
ようとしない生徒達も、この暑苦しいなか学校に行かなきゃいけないこと自体、すべてが馬鹿らしく思えてしょ
うがなかった。
 学校の授業の内容なんて、テスト前に自分なりに勉強すればそれなりの点数がとれるのだ。それなのにわざ
わざ下手な授業を受けに行く理由もないではないか。
 由貴は空を見上げた。夏真っ盛りの晴れ晴れとした青空が広がっている。
「それにこんな日に学校なんかにいたら腐っちゃうもんねー」
 先ほどまでの仏頂面から一変して笑みを浮かべ、由貴は意気揚々と真昼の街道を歩き出した。
 突然、地面が大きく揺らいだ。平衡感覚を失って、由貴は成すすべもなく街道に叩きつけられた。悲痛な声を
あげて打ち付けた頬を押さえ、由貴は素早くあたりを見回す。しかし、街道に座り込んでいるのは由貴だけだ
った。他の数人の通行人は、むしろ不思議そうに由貴のことを横目で見ている。気づけば揺れも何事もなかっ
たかのように収まっていた。
「大丈夫?怪我しなかった?」
 親切そうな女性に声をかけられ、由貴は素早く立ち上がった。「大丈夫です」と応えながら、自分の失態を見
られたことに顔を赤らめる。
「まぁ、顔がすりむけてるわよ、血が出てる」
「あ、平気です、こんなの。でも今の地震結構大きかったですよね」
「え?あら、地震あったの?私鈍感だから気づかなかったわ」
 由貴はまじまじと女性の顔を見た。足元をすくわれるほどの揺れだったのに気づかないはずがない。しかし、
現に彼女は平気な顔をしているし、周りの人々も特に変わった様子はない。
「足元に気をつけてね。顔、早く消毒したほうがいいわよ」
 女性はそういい残すと、その場を去っていった。由貴は狐につままれたような顔で頬の血をぬぐう。そしてな
んとはなしに上を見上げ――鋭い悲鳴をあげた。
 先ほどまでの真っ青な空が、不気味な黒い雲に覆われていたのだ。その黒雲には鮮血を思わせる赤い雲
が混ざっていて、空全体を吸い込むように渦を巻いていた。今まで見たこともないその異様な景色に、由貴は
言葉もなくその場に佇んでいたが、我に帰ってあたりを見回した。
 しかし、由貴は再び、自分を奇異な目で見つめる通行人達の視線にぶつかった。訴えるように上を見上げて
見せるが、つられて上を見上げた彼らは、一様に苛立たしげな顔でこちらを見るのだ。「何もないではないか」
と、その顔が如実に物語っている。
(なんで!?何で誰もあれに気づかないわけ!?)
 パニックに陥りそうな自分をなんとか抑えつけ、ぎゅっと目をつぶると、由貴は恐る恐る目を開きながら空を
見上げた。
 視界に広がったのは、雲ひとつない快晴の空だった。


















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