2







 ふと、惰性で閉じていた目を開け、由貴は寝台から起き上がった。眠りに落ちてはいなかった。先ほど鈴麗
が部屋を出てから、まんじりともせずに寝台の上に寝そべっていたのだが、聞き覚えのある声を聞きつけたの
だ。
 視線をめぐらす由貴の目が、露台に続く大きな窓の上で止まる。
 足を忍ばせて窓に歩み寄ると、由貴は小さく窓を開けて耳をそばだてた。
「…んね…ぶりじゃねぇか」
「…は…ですか」
 やはり、途切れ途切れだか会話が聞こえる。しかもその片方は、先ほど軽く言い争った若い男のものだ。目
つきを険しくして階下を覗き込んだ由貴は、しかし慌てて頭を引っ込めた。思ったよりもすぐに近くに紫炎の頭
頂部を見つけたのだ。その隣には、つるりと禿げ上がった形のいい頭が並んでいた。一瞬みただけで誰かわ
かる。
(遙克さんと紫炎が、こんなところで何話してるの?)
 そろりそろりと目だけを覗かせ、由貴は内心首をひねる。二人にはあまり親密な様子は見られなかったが
…。
 露台から見下ろす階下は、どうやら宮殿の中庭らしい。ささやかな池とほどよい大きさの岩が和風庭園のよ
うな構図で広がっている。その先、荒々しい海原が見渡せる場所で、二人は静かに佇んでいた。
 遙克はなぜか装衣を尻からげにして上半身をむき出しにしている。その筋骨隆々たる背中は広く逞しく、横
に立つ長身の紫炎が、可笑しいくらいに小さく見えた。
「変わってねぇなぁ、ここの景色も」
 ぼりぼりと首の後ろをかきながら、遙克が言う。ついで、紫炎の驚くほど穏やかな声が答えた。
「変わったことといえば、少しこのあたりの森林が少なくなったことでしょうか。難民が郊外に住居を構え始めま
してね、木材の需要が著しく増加しているのですよ」
「紫炎、そういや仕事のほうはどうだ?」
「あと川の氾濫を抑えるために堤防を作りましたから、見た目も洗練されたはずです。前はひどいぬかるみで
したからね、あの辺は」
「…おいこら、無視すんなよ」
「何がです?」
 おそらく満面の笑みを向けながらと思われる、極端なほどに爽やか声で紫炎が問う。遙克は困ったように頭
をかいた。
「なんだ、まだ怒ってやがんのか?俺が仕事全部ほっぽって消えちまったこと。お前のことだから全然心配し
てなかったけどよ」
「……心配、していなかったと」
その口調だけでも、由貴は紫炎の口元がひくりとひきつっているのが容易に想像できた。しかし、遙克は全く
意に介した様子もなくあっけらかんと言葉を続ける。
「おぅ!まぁ、その様子だと、かなり上手くやってこれたんだろ?」
「…なぁにが上手くやれただろーだこのクソ爺ィ!!どの面下げて帰ってきやがったんですかッ!!」
 突如紫炎の口調が豹変したかと思うと、物静かだった彼の後姿が掻き消え、次の瞬間、遙克にとび蹴りを
かます彼の姿が由貴の目に飛び込んできた。
 遙克はあっさりと蹴りをかわし、豪快な笑い声をあげる。
「やぁっと本性を現しやがったな猫っかぶりが!その気色悪ぃ笑顔はっつけたまんまでいられたらどうしようと
思ってたところだ」
「思ったとおりでしたが…どうしてそこまで反省の色が欠片も見えないんですか!貴方のせいで私がどれだけ
苦労したかわかってんですか!?」
「あーはいはい、ドウドウ」
「気安く触んないでくださいッ!」
 なだめるようにぽんぽんと頭をたたかれた紫炎は素早く手を払いのけた。しかし遙克はあきらめ悪くまた手を
のばす。
 そんな二人の様子を眺めながら、由貴は目を点にしていた。
(な…なんなのよ、あの紫炎の変貌ぶりは!?まるで別人…っていうか一体あの人たちどういう関係なわけ!?)
 謎が深まる光景を前にして、由貴はもっと会話をよく聞こうと身を乗り出した。
 しばらく乱闘していた二人だが、やがてきりがないとふんだのか、紫炎が先に身を引いた。苛立たしげに髪
をかきむしり、遙克に背を向ける。
「で、あれからどこに行ってたんですか。これだけ長い旅行に行ってたんですから、それなりの収入はあったん
でしょう?」
「あぁ、まぁな。とりあえず他の三界を巡って情報を集めてた。…"炎舞"が、動き始めたぞ」
 その言葉に、紫炎は敏感に反応した。顔色を変えて遙克を振り返る。
「それでさっき屋根から?もしや追われてたんですか」
「あぁ。宮殿に入っちまえばこっちのもんだからな。奴ら諦めて帰ったよ」
「…瑠斐(るい)もその中に?」
「いや、それはまだわからん。が、どっかで関わっちゃいるだろうな。あいつは向こうじゃ重要な立場にいる」
 瑠斐という聞きなれない名前に首をかしげていた由貴は、次いで聞こえてきた紫炎の声に思わず身震いし
ていた。
「見つけたら、ただじゃおかない」
 まるで、血のにじむような憎悪の思念。言葉に含まれるその感情は、彼のほっそりとした背中からも漂って
いるかのように見えた。
 遙克はそんな紫炎の様子をじっと見詰め、太く逞しい腕を彼の肩にまわした。
「紫炎。俺がいねぇ間に、つまらん感情膨らましてたみてぇだな」
「何がつまらないもんか!あいつは…あいつは!」
「…一番辛いときに傍にいられなくて、悪かったな」
 はっ、と紫炎は体を強張らせ、まるで弾かれたように遙克から飛びのいた。
「きっ、気持ち悪い!どうしたんですかいきなり殊勝に謝るなんて」
「おいこら、俺はまじだぞ。珍しくちゃんと謝ってんだ、真面目に聞きやがれ」
 遙克の静かな叱咤に、紫炎は心なしかひるんだ様子で口をつぐんだ。遙克は言い聞かすように言葉を続け
る。
「一人で耐えるのはえらい辛かっただろう、お前の気持ちもよくわかる。だがな、今は復讐の前に、もっとやる
べきことがあるだろう。お前の待ち焦がれてた人物が、やっとこさこの地に帰還したんだぞ」
「…"帰還"じゃない。彼女は別人だ」
 紫炎の呟きは、あっさりと遙克に無視された。
「惣玲から聞いたんだが、お前、もし彼女が旅に出ることになっても同伴しないって答えたそうじゃねぇか。正
気か?それとも単なる寝言か?」
「…師官、私の言い分も聞いてください」
「聞きたくねぇよ、てめぇの戯言なんざ!どうせ五年前のことがどうとかぐちゃぐちゃぬかすんだろ。いいか、お
前はあのお嬢さんに絶対ついていかなきゃならねぇ。運命(さだめ)から逃げようとするな、私情をはさむな」
「………」
「つまらねぇ感情に囚われるな、お前はそんな柔じゃねぇだろう。目の前のやるべきことに集中しろ、あいつら
は俺に任せとけ」
 しばらく重苦しい沈黙がその場を支配したが、やがて紫炎の首が微かに縦に動いた。途端に、遙克の声に
穏やかさが戻る。
「よしッ、聞かん坊の説得が終了したところで、俺は次のお仕事に行くとしますか!」
 ふいに、遙克は逞しい体躯の重さを感じさせない軽やかさで跳躍し、由貴がいる棟と反対側の棟の屋根に
飛び乗った。その一瞬の出来事に由貴が目を点にしているなか、紫炎は少しも動じない様子で彼を見上げて
笑う。
「まぁた上に登る…で、次の仕事ってなんなんです?」
「んなの、皇帝の夜這いに決まってんだろ!」
 にしし、と歯をむき出して人の悪い笑みを浮かべ、遙克は音もなく闇に紛れた。彼が見えなくなってもしばらく
屋根を見上げていた紫炎は、ゆっくりと踵を返して宮殿の中に戻っていった。ちらりと垣間見えた彼の表情は、
何かを決意したかのように引き締まっていた。
 慎重に身をひき、窓を閉めて、由貴はほっと一息つく。
(紫炎が一瞬遙克さんのことを"師官"って呼んだ。よくわかんないけど、"先生"って意味かな?うん、先生と
生徒っぽかった!二人仲良いんだなぁ、みんなの前にいるときは全然そんな感じしなかったけど)
 そんなことを考えながら寝台に戻り、ふかふかの布団にもぐりこむ。今日は色々とありすぎた。今から丸一日
くらい余裕で寝れそうだ。
 心地よい睡魔に襲われながら、由貴は妙にひっかかった遙克の言葉を反芻していた。
『いいか、お前はあのお嬢さんに絶対ついていかなきゃならねぇ』
(…もし私が旅に出ることになったら、紫炎がついてくるのかぁ。
 でもなんで、"絶対"なんだろ。"さだめ"って何?…っていうかさ、まだ私旅に出るって決めてないのに…勝 
 手に話進めないで欲しいんだけど…。
 
 ……旅、か。たのしいのかな……)

 

  堕ちていく夢の中で、由貴はいつもと違う感覚を捕らえていた。






 どこからか、水滴の滴る音が物悲しく響いてくる。




 涼しげな水音に、由貴はそっと目をあけた。
視界には、果てもなく続く無の空間があった。真っ白で、でもそれが白なのかどうかもわからない。透明なよう
にも感じるが、辺りに光が溢れているため、白く見えているようにも感じる。
そんな空間の中に、由貴はたった独りで浮遊していた。
ふいに、由貴の周りの空間が変化を齎した。
 所々の空間が歪み、ねじれ、何かの形を作り出そうとし始めたのだ。
 しばらくすると、辺りには様々な大きさの透明な球体が出現した。空間が作り出した、中身のない半透明の
球。
 やがてそれらの中身に、様々なものが生まれでた。とめどなく変化するので、何かと判断するのは難しい。
しかし、街のようなものが見え隠れするのだけは認められた。
 そして球はとめどなく中身を変化させながら、由貴の周りをゆっくりとまわり始めた。ゆっくりと、時を刻むよう
に。
(これは・・・『世界』?)
ふと、由貴はその球が何かをさとった。球の中身で変化しつづけるのは、この宇宙に存在する、数多の世界な
のだ。球は増え続け、それらの中身はめまぐるしく変化していった。
(じゃぁ、この中に私の世界もあるの?)
 ぼんやりとした疑問をもって、由貴は周りの球をかわるがわる覗き込む。
 突如、ガラスが砕けるような音がこの不思議な空間に鳴り響いた。由貴が振り返ると、
彼女の背後で二つの球がぶつかり合っていた。大きな球と、小さな球。
よく見ると、大きな方の球の中には高層ビルのようなものが立ち並び、ネオンが鮮やかに瞬いている。それ
は、由貴の住んでいる東京に酷似していた。
 もう一方の小さな球の中には、五本の大木が星の形を描くようにして立っていた。それは、惣玲や遙克から
聞かされた『五本の大樹』を思わせた。はっと由貴が息を呑む。
(私の世界と、創霞国の衝突を表してるの?)
 衝突し合った二つの球は、そのままの形でくっつき、時々ぐにゃりと形を歪ませた。
 由貴は二つの球に歩み寄り、小さな方の球を両手でそっと包み込んだ。すっぽりと、球は彼女の両手に納ま
る。
(…!!)
 その球を覗き込んだ由貴は、はっと目を見開いた。上から球を覗くと、五本の大樹の真上に、真っ白に輝く繭
のようなものが浮かんでいたのだ。その繭はだんだんと、緑の大地が広がる中に落ちているようだった。
 由貴の背筋が、ぞわりと粟立つ。惣玲の語った話の内容が、鮮やかに脳裏に蘇る。
(もしかしてこれが、白い舟!?)
 動悸が激しくなり、由貴は嫌な予感を覚えながら生唾を嚥下していた。
(ってことは、これが落ちたら悪鬼が…)
 由貴の嫌な予感が確信となった時、輝く繭がついに、地上に降り立った。
 突然、繭が水をかけられたようにふにゃりとしおれ、中から由貴の恐怖を駆り立てる黒い霧が噴き出してき
た。悲鳴をあげて由貴は球から手を離し、霧を吐き出し続ける繭を凝視する。
 霧はあっという間に球全体を包み込み、くっついていた大きな球をも侵食していった。
 そして二つの球が完全に黒霧に支配された途端。
 身を引き裂かれるような甲高い破壊音が響き渡った。食器が立て続けに割られるような、心臓をわしづかみ
にされるような音。由貴はとっさに両手で顔を覆っていた。
 やがて、音がやんだ。恐る恐る手をのけた由貴は、しかし目の前に広がる光景に息を詰まらせた。
 二つの球は空中から跡形もなく消えていた。残っていたのは、由貴の足元に散らばる大量の硝子の破片だ
け。誰のものかもわからない、おびただしい量の鮮血に濡れた、世界の透明な残骸だけだった――。


















to be continued

トップへ 戻る 前へ