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          トレーナー
          
           
          
          
          
           
          
           
          
           
          
           
          
           
          
           
          
           
          
           
          
           
          
           
          
          「・・・ねぇ、それ絶対嘘でしょ」
           
          
           
          
          「は?」
           
          
           
          
           思わず素っ頓狂な声を出して、じっとテーブルクロスに注いでいた視線を上げた。
           
          
           
          
           ゴルゴンゾーラの香りがつんと鼻にくるペンネをフォークに突き刺したまま、俺のほうを睨みつけている彼女。
           
          ゆがみ一つないストレートの髪が肩の位置で切りそろえられていて、涼やかな目元がなんとも色っぽい。ちょ
           
          っと彼女の顔に見惚れてから、その視線の先を見下ろした。
           
          
           
          
           東京の夜の色。少し色あせた紺色のトレーナーを格好よくたとえるとしたら、そんな色だ。その真ん中あたり
           
          に、デフォルメされた『Frank』という白い文字。
           
          
           
          
          「・・・これのこと?」
           
          
           
          
           自分のトレーナーを指差して聞くと、彼女はいかにも不機嫌そうに頷いた。ペンネが一個、彼女の薄い唇の
           
          中に消える。
           
          
           
          
          「Frankってどういう意味か知ってる?」
           
          
           
          
           ううん、とほとんど上の空で返事をした。彼女はいつもどうでもいいことで腹を立てる。だいたい、今はそんな
           
          トレーナーの文字のことなんかどうでもいいんだよ。俺、それどころじゃないんだってば・・・。
           
          
           
          
          「あのね、率直って意味よ。包み隠さない人って意味もあるけど」
           
          
           
          
          「うん、そう。それで?」
           
          
           
          
           とっくに食べ終わった皿を押しやって、ウエイターが運んできたコーヒーを受け取った。もうずいぶん長い間こ
           
          こで粘ってるけど、彼女のゴルゴンゾーラはまだ半分しか減っていない。小食の彼女にコースは少しきつかっ
           
          たかな・・・。
           
          
           
          
          巻き舌すぎて気持ち悪くなりそうなイタリヤの歌をBGMに、俺たちはほとんど黙りっぱなしで向き合っていた。
           
          なんだっけ、この歌。結構有名だったよなぁ。オーソレミーア?オーソレ・・・いや、そんなことどうだっていい。問
           
          題は――
           
          
           
          
           俺はそわそわとズボンのポケットをまさぐった。
           
          
           
          
           よし、大丈夫。ちゃんとある。でも、こんなイタメシ屋で渡すってちょっとシチュエーションがやばいかな・・・。お
           
          まけにこんな格好だし。彼女怒るかも。やっぱ今度にしようかな。今日は彼女の機嫌も悪そうなことだし、やめ
           
          とこっかな・・・。
           
          
           
          
           ぐるぐると目くるめく思考の渦に囚われていたら、彼女の苛立たしげなため息が聞こえた。
           
          
           
          
          「そのFrankって嘘でしょ、って言ってるの」
           
          
           
          
          「だからなんでさ。着てるものまでケチつけられたらたまったもんじゃないよ」
           
          
           
          
           思わず彼女の苛立ちに触発されてこっちも不機嫌な声を出してしまった。途端に、彼女の薄い唇がへの字に
           
          曲がる。怒り、哀しみ、苛立ち。そのどれともつかない表情に、俺は自然と口をつぐむ。
           
          
           
          
          「Frankなんて、嘘。率直なんて嘘。私に大切なこと黙ってるでしょ!で、それを言おうか言うまいか悩んでる」
           
          
           
          
           ぐっと言葉につまった。何で知ってるんだよ、と心の中で叫びつつ、頬が紅潮するのがわかる。しかし彼女の
           
          怒鳴った台詞はまるで見当違いなものだった。
           
          
           
          
          「私と別れたいんでしょ。さっきからずっと黙っちゃって、ぼーっとして。仕方ないから服にケチつけるぐらいしか
           
          会話がないじゃない!」
           
          
           
          
          「えっ。別れたい?いや、そんな全然違うって――」
           
          
           
          
          「最近の君、変だよ。いつも上の空。ちゃんと私の話聞いてくれないし、なんかそわそわしてる。私に飽きたん
           
          でしょ、ならはっきりそうと言えばいいじゃない。そういう優柔不断なとこ、嫌い!」
           
          
           
          
           彼女は興奮したのか、持っていたフォークを放して突然立ち上がった。いきなり爆発した彼女を、俺はただ呆
           
          然と見上げるしかない。彼女のくっきりとした睫毛になにか光るものをみとめて、俺はさらに硬直してしまった。
           
          
           
          
          「・・・そろそろ出ようか」
           
          
           
          
           椅子にひっかけておいた上着を手に、慌てて立ち上がった。半分ほど残されたペンネに少し名残惜しそうな
           
          視線を向けたものの、周りからの視線にさすがの彼女もおとなしく頷いた。
           
          
           
          
           会計はもちろん俺のおごり。からん、と涼やかになるベルの音に見送られて、俺と彼女は店を出る。外は少
           
          し、雪まじりのみぞれがぼたぼたと降っていた。服にまとわりつく、重いみぞれ。これ、服にしみこむと冷たい
           
          んだよね。
           
          
           
          
           自然と着ていたジャケットを脱いで、彼女に渡した。はい、と笑顔で差し出すけれど、彼女はぷいっと横を向
           
          いて頬をふくらます。俺は苦笑して、
           
          
           
          
          「さぁどうぞ、お嬢様」
           
          
           
          
           気障ったらしくジャケットを広げ、彼女の背中にふわっとかけた。彼女は何も言わなかったけれど、その華奢
           
          な白い手がそっとジャケットの裾を握り締めたのを、俺は確かに見た。先ほどの剣幕は、どうやらもう落ち着い
           
          たようだ。さっきの言葉も、カッとなると見境なく相手を罵倒する彼女の、心にも無い言葉だってことはよくわか
           
          ってる。だけど知らないうちに彼女を不安にさせてたんだと、俺は深く反省した。
           
          
           
          
           ぶらぶらと歩くにぎやかな繁華街。しかし、いつもはリサイクルショップとかに立ち寄る彼女が、今日は繁華
           
          街からそれて近くの公園に足を運んだ。
           
          
           
          
           思ったとおり無人の公園に、タコ型の滑り台がぽつねんとおかれている。寂しい水色のペンキは、ところどこ
           
          ろはげおちて、いたるところに落書きがあった。
           
          
           
          
          『ケンジlove!』とか、『死ね、バーカ』とか、いやらしい絵とか。人間のまっさらな感情が、そこに溢れていると
           
          思う。
           
          
           
          
           彼女はそのタコの遊具に歩み寄ると、ドーム型に開いているスペースに入り込み、まるで小学生のように体
           
          育座りをして、くすりと笑った。彼女は笑うととても幼く見える。
           
          
           
          
          「ねぇ、こっち来て。座って」
           
          
           
          
          「なんで?どうしたの、いきなり」
           
          
           
          
          「いいから」
           
          
           
          
           言われるままに、俺は彼女を追ってタコの穴によじ登った。しかし肩幅が収まりきらないので、彼女の隣に座
           
          るのはあきらめ、彼女の前に同じく体育座りをした。途端に、自分が小さな生き物に思えて、その反面こんなこ
           
          とをしている自分がおかしくって、俺も少し笑ってしまう。
           
          
           
          
           と、ふいに背中に何かが触れた。彼女の細長い指の感触だ。それは俺の肩甲骨あたりをそっと撫でたり、ぎ
           
          ゅっと掌を押し付けたりしていたが、やがて離れた。離れてから、彼女の手が暖かかったことに気付いた。
           
          
           
          
          「なに?」
           
          
           
          
           振り返らずに、静かに聞く。何を問い掛けたかったわけでもない。ただこの静かな空間にあるはずの、彼女
           
          の存在を確かめたかった。
           
          
           
          
          「・・・トレーナー着てる君の背中、好きだよ」
           
          
           
          
           彼女のくぐもった声。ひざのなかに顔をうずめて言ったのだろう。さっきレストランで怒鳴っていた彼女とは別
           
          人のようだ。実はとても脆いのに、強がってそしてそれが板についちゃって。・・・そんな彼女を、守りたいと思
           
          う。抱きしめたいと思う。たとえつまらないことで怒ることがしょっちゅうでも、どんなに頑固でも、ふと感じる彼
           
          女の弱さに気付くたんびに、あぁ、俺が守ってやらなきゃなって、思うんだ。
           
          
           
          
          「俺も、トレーナーは好きだよ」
           
          
           
          
           少し後ろに体重をかけて彼女の足に背中をつけ、答える。彼女の笑いがひざごしに伝わって、体が震えた。
           
          彼女のひざは、冷え切ってしまっていた。
           
          
           
          
          ・・・どうしていつも俺がトレーナーを着ているのか、彼女は知らない。きっと彼女は忘れてるだろうけど、今の台
           
          詞と同じようなことを、前にも彼女に言われた。
           
          
           
          
          ――君のね、トレーナー着てる背中。肩甲骨がちょうどよく出てて好きなんだ。なんかね、安心する・・・。
           
          
           
          
           降り続けるみぞれと、口からもくもくと湧き出る白い息。寒々しいそれらの中で、自分だけ暖かいのは不思議
           
          な感じだった。
           
          
           
          
          「じゃぁ、今度からは文字もちゃんと考慮に入れて買うこと。嘘をつくのは駄目だからね」
           
          
           
          
          「・・・うん」
           
          
           
          
           彼女は知らない。最近、どうして俺の態度がおかしくなったのか。
           
          
           
          
           彼女は知らない。それが、自分のせいだってことも。
           
          
           
          
           でも、それでいいのかもしれない、と、公園に灯った街灯をぼんやり眺めながら、俺は思った。もう少し、この
           
          ままでいたいから。漠然とした不安も、相手を知ることに嫌気がさすこともない、今の状況に、もう少し、浸かっ
           
          ていたいから。
           
          
           
          
          「・・・あっ。ねぇ、なんか雪っぽくなったみたい」
           
          
           
          
           俺の肩越しに外を見ていた彼女が、ふいに嬉しそうな声をあげた。見ると、ついさっきまでぼたぼたと降って
           
          いたみぞれが、街灯に照らされて軽やかに舞っていた。雪なんて、今の季節そんな珍しいものじゃないけど、
           
          みぞれなんかよりだんぜん綺麗だってことは、認めざるを得ない。
           
          
           
          
          「――あのさ、もう少しだけ、待っててくれるかな」
           
          
           
          
           え、と訝しげな声をあげる彼女を振り返って、俺は笑ってみせる。
           
          
           
          
          いつか、君の全てを受け入れられるようになったら、またこのトレーナーを着て、君を迎えに来るから。その時
           
          は、自分のかっこうに恥じたりしないで、堂々とポケットから箱を取り出してみせる。あくまで俺のスタイル。『Fr
           
          ank』だって、それまでにものにしてみせるさ。
           
          
           
          
           ひらひらと風に運ばれて、雪がぽつりと唇に触れた。その一瞬の冷たさを、静かに目を閉じ、俺は密かな決
           
          心と共に胸に刻んだ。
           
          
           
          
           
          
          
           
          
          
           
          
          
           
          
          
           
          
          
           
          
          
           
          
          
           
          
          
           
          
          
           
          
          
           
          
          
           
          
          
           
          
          
           
          
          
          〜 あとがき 〜    恋愛小説って、書いててこそばゆいですね。(笑
           
          
          
          
                   そして短編って難しいなと改めて思った。
           
          
          
           
          
          
           
          
          
          
           
          
          
           
          
          
            
          
          
          
          
           
           
          
           
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