俺が死んだ日
                     



今俺は、確実に死のうとしている。
 床に広がりつつある水の上で、ただ口をパクパクと開閉させながら。どんなに飛び跳ねても、どんなに鰓を動
かしても、息を吸うことができない。肌からは水気がだんだんと抜けていき、自分が干からびていくのが手にと
るようにわかる。
 あぁ、なんて情けない死に方だろう。よりにもよって、俺の一番嫌いな野良猫に水槽を蹴り落されて死ぬなん
て、夢にも思わなかったぞ。
 俺の夢は、いつかこの狭い水槽から逃げ出して、広大な海で生活することだった。こんな水槽の安っぽい白
ではなく、あの真っ青な世界で精一杯泳ぎたかった。
 それなのにどうだ、このざまは。結局海も見れずに、この誰も居ない古びた家で、俺は死のうとしている。お
まけに老衰じゃなくて、野良猫のせいで。
 あぁ・・・・苦しい。息ができない。
 はっきり言って、俺も死ぬのは怖かった。誰だってそうだ。それは、『死』というものが得体の知れないものだ
からだ。死んだら、どこへ行くのか、どうなるのか。それを教えてくれる人はいない。それだけは、親も知らない
から。
 でもいざこうやって死にそうになってみると・・・そんなに怖くないかもしれない。
 第一、今まで水槽からぼんやりとしか見えていなかった景色が、今は鮮やかすぎるくらいよく見える。た
だ・・・・なんかおかしいぞ。だって、俺は今まで古い家にいたはずだ。俺を飼っていた人間が住んでいてた、古
いアパートに。その人間達は俺とこの忌々しい水槽だけを置いてどこかに行ってしまったけれど。
 今俺の目に見えるのは、視界いっぱいの青。水槽から見えていた空の青さなんかじゃない。もっと深い・・・ま
るで、そう。海の中みたいな青。
 ――そうだ。今俺は、海の中にいるんだ。
 そうと解ったのは、俺の横をでっかい魚みたいのが通り過ぎたから。ふと気がつくと、俺の周りには、見たこ
ともない様々な種類の魚が、皆同じ方向に向かって一心不乱に泳いでいた。それこそ、俺が無限大集まって
も追いつけないほど大きな魚や、まるで糸みたいにふよふよと頼りなげに泳いでいる、というか漂っている魚
まで、一種多様だ。
 俺はおそらく目を点にしていただろう。金魚にできたらの話だが。
 しかも。なんだかさっきまでの息苦しさが嘘のように消えていた。鰓を動かさなくても息ができる。いや・・・動
かしてないのか?
俺はどうやら息というものをしていないらしい。まぁ、それで苦しくないならいいか。

 それよりも・・・今俺は、念願の海の中にいるんだ!

 見渡す限りの青。青という言葉じゃ言い表せないくらいの深い青。
 見上げれば、黄色や橙色の暖かな光が放射線状に俺と周りにいる大勢の魚を優しく包み込んでいる。あ
ぁ、なんて暖かい光なんだろう。それになんだか、すごくいいにおい。
 皆がわき目もふらず進んでいる方向から、そのいいにおいは流れていた。皆、あのにおいを目指してるんだ
な。あのにおいがなんなのか、俺も気になる。ちょっとついていってみようか。
 魚の行列に加わると、周りの魚達が一瞬俺に目をむけ、すぐに興味を失ったように視線をそらした。みんな顔
がなんとなくぼう、としている。遠くを見ているというか、心ここにあらずといった顔だ。だけど、それは俺も同じ
かもしれない。どうして突然俺はこの海に来たのか、そして俺とこの魚の行列は、一体どこに向かっているの
か。その答えをぼんやりと考えている俺も、みなと同じような顔をしているのだろう。
 でも大体、自分がどうなったのかは想像がつく。
 死んだのだ。
 思ってたより苦しくなかった。むしろ、今は心地よい開放感で満たされている。あの狭苦しい水槽から、この
壮大な海に解き放たれた開放感。言葉に表しようがない。
 ただ、やっぱり生きていた時の俺に対する寂寥はぬぐいされない。あんな寂しい死に方をしたことに執着して
いるのかもしれないな。もしくは俺の短い人生に。
 物心ついたとき、俺は四角い白い箱のような、水槽ともいえないものに入れられて、いっぱいの仲間と一緒
に泳いでいた。上の世界からは雷のような恐ろしい、人間独特の鳴き声がして、ひんぱんに丸くて薄い膜のは
ったしゃもじみたいなものが襲い掛かり、俺たちの仲間を上の世界にもっていった。でも、破れることのほうが
多かった。そしてその膜が破れるたんびに、すさまじい絶叫が上の世界から聞こえてくるのだ。人間とは恐ろ
しい生き物だ。
 俺はすばしこい方だったから、結構最後の方まで生き延びれた。が、ある日俺がうたた寝している時、不覚
にもあのしゃもじにすくいとられて、白い箱から小さなビニール袋に移し変えられ、人間の手に渡った。はっきり
言って、あの時俺はこれが最期だと思った。人間に食われるんだと、腹をきめて待っていたんだ。
 だが、しばらくすると、俺は小さな水槽にいれられ、すぐにエサを与えられた。なんだ、どうした、とパニック状
況のまま、ただエサを貪り食っていたが、そのうちに、人間達が俺を殺そうとしているわけではないことを悟
り、俺は狂喜した。そのときは、まだ生きられることに希望を見出していた。
 そしてゆるゆると時は流れ、そのうち俺の持っていた希望は、水槽という狭い世界の中で、少しづつ、少しづ
つ腐っていった。俺の体も、俺の夢も。
 ――いつか、きっと海で悠々と泳いで見せると。そう信じていてた希望も、いつの間にかなくなっていた。
俺はいつ、なくしてしまったんだろう。
今更になって、そのことに気づく。ま、そんなものさ。死ぬときになって、初めて気付くことが沢山あるんだ。死
んでからでは、何もかも遅いのに。







 においが強くなってきた。でも、鼻腔にツンと来る様なにおいじゃない。やっぱりすごくいいにおいで、なんだ
か無性になつかしいかんじがする。卵の殻に包まって眠っているような、心地よいなつかしさだ。
 俺は、行列が向かっている海の向こうに、じっと目を凝らした。うっすらと行く手が明るい気がする。それに・・・
あれはなんだろう。あの、海底に無数に寄り集まっている珊瑚のような物体は。その物体から、このいいにお
いは漂ってきているようだ。俺の周りの魚達の目が、その物体を見た途端に、明るく輝いた。今までのぼんや
りとした顔が嘘のように、何かの答えを見つけ出したかのごとく顔を生き生きと輝かせている。なんでそんなす
っきりとした顔ができるんだ。俺はまだ死にきれないというのに。俺は、みじめな気持ちでその物体を見詰め
た。
 どこかで見たことのある形だ。中心の丸い核のようなものから、放射線状に大きなハート型の葉らしきものが
突き出ている。いや、葉にしては色が鮮やか過ぎる。真っ赤だったり、黄色だったり、薄ピンクだったり。
――そうだ、あれは、『花』というものだ。
 俺は、いつか水槽から見た『花』を思い出していた。水槽のガラスで歪んでいたけれど、その今まで見たこと
もないほど美しい形に、俺は思わず見惚れたほどだ。幾重にも重なった、真っ赤な細い花びら。花瓶の端から
気取ったようにのぞいていた、少しぎざぎざの葉。
可憐で、しかし茎と葉をシャンと伸ばしているその姿は、日々安穏とした生活のせいで腐りつつあった俺に
は、まるで救世主のように見えた。
 だが、微かに湧き出た俺の希望は、また無残にも打ち砕かれた。
花が枯れてしまったのだ。
人間が、しおれた花を花瓶から取り出し、捨てているのを見ながら、俺は、自分の中に小さな空洞ができて、
そこから風がひゅうひゅうと空虚な音をたてるのを感じた。
 その花が、今、俺の目の前にある。広大に広がる海底を、ずうっと先まで覆うように。色とりどり、形も展でバ
ラバラだったが、一瞬でも俺に希望を注いでくれたあの花は、身間違えようも無い。
 ふと気が着くと、周りにいた魚達も、列を離れていろいろな花に近寄り、そのにおいをうっとりと嗅いでいた。
それぞれ、想う花の形は違うらしい。俺はこの花以外好きにはなれないが。他の花を好きな連中の気が知れ
ない。この花はきっとどの花よりも美しいのに。でも、おそらく皆そう思っているのだろう。
 俺は、あの花に近づいて、そのにおいをゆっくりと吸い込んだ。胸の奥までじん、としみこんでくる。突然、俺
は無性に泣きたくなった。理由はわからない。ただ、大声をあげて泣きたかった。
  俺は、一体なんのために生まれてきたんだろう。
 そんな思いが、口をついて出てきそうになった。
 赤く美しい花に向かって、俺はこころの中で問い掛ける。
――俺が存在する意味はあったのだろうか。一体なんのために、俺はあそこにいた?
すると、潮の流れに押されたのか、花が微かに頭を垂れた。それが俺には、頷いてい
るように見えた。
――そんなこと、わからなくてもいいよ。
 そう言ってくれたような気がした。いや・・・確かに今、俺の心に小さな声がそう語りかけたのだ。まさか、この
花が?
 俺はただ、花に頷き返した。何度も、何度も。まぶたの無い俺の目から、無数の涙がこぼれているような錯
覚を覚えながら。できれば、もう一度最初からやり直しかった。俺の人生を。あの白い箱に入れられていた時
に戻って、いつか箱から逃げ出して、海で幸せに暮らす。なんて最高な人生だろう!
 ただ、それは『俺』じゃない。俺は、人間に囚われ、水槽に閉じ込められ、最期には野良猫なんかに蹴られて
窒息死した、寂しい金魚。俺以外の誰にも、その人生を歩むことはできないんだ。どんな金魚にだって、どんな
生き物にだって。そう思うと、気のせいか、さびしかった自分の人生が、今思うととても美しかったような気がし
た。
 突然、花が一瞬目映いくらいに輝き、俺の体をそっと包み込んだ。驚いて何事かと辺りを見回すと、他の魚
達も、自分達が想う花の光に包まれて、真っ白に光り輝いていた。
――怖がらないで。
 また、あの声だ。小さくて、今にも消えてしまいそうなか細い声。きっとこの花の声だろうと想いながら、俺は
「何を」と問い掛けていた。
――今から貴方達は、あの海の上に行くの。ここでもう貴方の体とはお別れよ。
 体と・・・お別れ?そんなことができるのだろうか。
 ふと、俺は違和感を感じて、自分の体を見下ろした。そして、あまりの驚きに声をあげたが、その声は音を発
さずに、光の中に消えていった。
 体が、ない。なにもない。なにも見えない。体がなくてはいけない場所には、ただ目映いばかりの光しかな
い。
 別に自分の体が気に入っていたわけではなかったが、もうこれで本当に俺は死んだんだ、という思いで、俺
の胸はいっぱいになった。あ、そうだ。もう胸もないんだ。
 周りを見渡すと、沢山の小さな光の球だけが花の上にふわふわと浮いていた。みんなも体が消えてしまった
のか。
 ――さようなら。また、会いましょう。
 花がそう言って、また微かに頭を垂れた。それに続くように、回りの花々が次々と体を揺らして、不思議に光
輝く潮の流れを作り出した。それに押されて俺は勝手にふわりと上昇し、あの海面から差し込む光にむかっ
て、ゆっくりと浮かび上がっていった。
 他の光達も、俺と同じように昇っていく。
 あの海面に出たら、一体どうなるんだろう。無になるのだろうか。そこで俺は、本当に消えてなくなってしまう
のだろうか。
 いや、あの花は、「また会いましょう」と言った。ということは、俺はまたあの花と会うことができるということ
だ。つまり・・・生まれ変わるのだろうか?
 別の体に。別の生き物に。そう思うと、俺はなんだか不思議な、言葉に言い表せない気持ちになって、海面
から差し込む光を見詰めた。その光が一瞬、大きな翼を広げたようにみえた。まるで白いはとのように。俺は
また、自分が泣いている気がした。
俺を飼ってくれた人間よ、さようなら。俺の水槽よ、さようなら。俺の体よ、さようなら。
 そして、俺よ。また会う日まで。
 今度の俺は、『俺』じゃないかもしれない。『私』かもしれないし、『僕』かもしれない。
 魚じゃないかもしれない。猫や犬、まさか人間になってたりして。そうなったら、絶対に魚は食べないぞ。何
があっても。そして、金魚も絶対に飼わない。
 ・・・あぁ。光が近づいてきた。もうそろそろだ。
 俺は、光の翼の中にくるまれた。自分が、溶けているような気がする。光の粒子に。
 そして俺は、翼にはたかれて、真っ青な空に流れていった。
   


















〜 あとがき 〜   前世占いをしたら、自分は金魚だったと出た。
「金魚かよ!?」と爆笑し、次いでその金魚が死んでから自分に生まれ変わるまでを想像してみた。
そして突発的に書いた作品。
ちなみにうちの相棒の前世は“アボリジニに飼われてたコアラ”らしい。どっこいどっこいだな!(笑


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